こども鏡

教育にも紐づく、これからの時代に必要な能力

人と人、人とものごとを繋ぐカタリスト小梅です。

昨日の朝、走っていた時にパピヨンを3匹お散歩させている女性を見かけました。

とてもお行儀よく並んで歩く犬達。
とても可愛いこ達だなと思いつつも、自分の感じている違和感が拭いきれない原因を考え、そのことを突き詰めて考えていくと、様々な思い出がフラッシュバックしてきて、更にnoteでもそれ関連の情報が目に入り出しました。

私は「3つのキーワードが集まれば行動する」と決めています。
それらを整理する為にも、このnoteを書こうと思い立ちました。

たくさんの”ルール”と”肩書き”に縛られている日本人

私は28歳になる年に、フィリピンでの3ヶ月間の語学留学を経て、オーストラリアでの生活をスタートさせました。

その時に、「高田さんちの小梅さん」でもなく、前社の肩書きであった「犬吉猫吉の営業の小梅さん」でもなく、ただの”小梅”として生きることの自由さを知りました。

出身地も、年齢も、仕事も、何をしてきたかも、自分が何か始める時にその事実だけを表現してアピールできればそうなり、そうできる。

でもそれは同時に、自分が今までにどうやって生きてきたか、自分と言う人間の生き方が露呈されることにも繋がります。自分がその人にとって、その会社にとって何ができるのかを明確に表現する必要があるのです。

与えられることをやるのではなく、自分で創造する必要がある場合は、自由であると共に”不安定さ””不安”がつきまといます。それを払拭する為には、自分で選んで行動した経験を積み重ねるしかありません。

私は家族といた時も、特に「〇〇を演じる」ことなく成長できてきたと思います。そしてやることを強制されず、やりたいことに挑戦し続けてこられた。

そんな私でも、日本で自分についていた看板や、人の繋がりから生まれる役割などから解放され、心が軽くなりました。
それは自分や社会が設定した、〇〇らしくや、~でなければならないという鎧を外すことができたからだと思います。

そうであるならば、私よりももっとずっとたくさんのルールに縛られ、「こう生きなければならない」、「こう生きるしかない」と信じ、”~すべき””~ねば”に翻弄されている人達は、どれだけ心と身体が軽くなることでしょうか。

私は日本を出たことのない日本の人に、一度でも良いからこの感覚を味わってほしいと願っています。そこから本来の自分に向き合えることがたくさんあるからです。

それではなぜ私達は、そうなければならないと思い込んでいるのでしょうか?

らしさを生き、意識を持たずに「ルール」に従うことの気楽さ

私は自分の成長や人を育てることに興味があるので、それ関連の本を読んだり、話を聞いたりするのがすきです。最近では子どもを育てるというトピックにかなりアンテナが立っています。

私には既に9人の甥っ子&姪っ子がおり、とても元気にスクスク、素直に育っているなと言う印象を持っています。←おばバカ

彼らの一番気に入っている部分は、”子どもらしく笑う”ところです。

私は時折、子どもが大人の様に振る舞い、愛想笑いを浮かべている光景を目にすることがあります。

その時に思い出したのは、カンボジアで学校づくりをしていた時に目にしていた、プレイキション村の子ども達の弾けるように輝く子ども達の笑顔。

村には電気が通っておらず、水道もなく、日本では考えられないような不自由な生活を強いられ、食べ物も乏しい学校のない村。それでもあんな風に笑っている子ども達がいる。

日本はこんなに恵まれている国なのに、笑顔の曇った子どもが育つ国になってしまったのか。そう感じた時に、”子供らしく笑う”甥っ子&姪っ子たちをとても愛しく思えました。そして家族を誇りにも思えました。

そんな時に、「瀧波 わかさん」の書いた『トトロに学ぶ、子供を大事にする方法』を読みました。

スタジオジブリの作品は私も大好きで全て観ており、となりのトトロはセリフを覚える程観た作品です。でも、こんな視点で作品に向き合ったことがなくて、たくさんの発見をさせてもらったnoteでした。

さつきちゃんも、自分の状況と日本の社会の中から様々な枷を受け取り、「姉として」「母として」たくさんの鎧をまとって、小さな体で子どもながらに踏ん張っていたんだと気付かされました。本当にたくさんのメッセージが隠された作品ですね。

そして私達は「らしく」を意識した育て方をされやすい環境で育ってきていたのだと気づいたのです。

皆さんも言われたことないですか?
「お兄ちゃんだから(お姉ちゃんだから)いいこにしないとね。」
「長男だから(長女だから)しっかりしてるわね~。」

これらの言葉は、子どもの親に認められたい欲求を満たし、そうしなければならないと刷り込ませる言葉です。良い子なのは〇〇だからではなく、そのこ本人がそうだからであるのにも関わらずです。

私は初めてあった人にはよく「しっかりしているし、面倒見が良いから長女でしょう?」と言われてきました。だからそういう時は「小さい頃は弟の面倒をよく見ていたかもしれませんね。」と話します。

そして自分の人生の話をし、3番目で次女だと話すと、人は大抵「やっぱり中間子で次女は自由奔放ね~。」と言います。

つまり人の印象なんて、その時々のその人が持っている勝手なイメージだということです。

またよく言われる言葉の中で「男(女)だから〇〇しなさい。」もありますよね。

私は20歳まで男の子のような育ち方をしてきました。
だから小学校の時の卒業式は、スカートを履くのが常識だと母に言われたのを拒否してズボンを履いて出ました。その私の希望を許してもらえる環境で育ったのは本当に恵まれていると思います。

何を言いたいかと言うと、人は人の常識に当てはめた印象を言われたり、こうすべきと提示されたことを、そのまま受け止めてそうならないといけない訳ではありません。だからそれを演じる必要もありません。

人がそれを促すのは、そうすることが楽だからです。なぜかを考える必要がなく、周りからも浮きません。しかし、人の基本力を上げる日本の教育や、人同士の調和を育てる仕組みが、人の特徴を失くし、可能性を狭めることに繋がるのはとてもナンセンスです。

また、親は自分の経験や自分が接してきた情報からでしか子どもを教育できません。自分の成功体験と失敗体験、もしくは聞いた話で子ども達を一生懸命サポートしようとします。でも自分の成し遂げたいこと、そして進みたい道、選びたい選択のどれをも経験せず、選んできていない両親や兄弟、周りの人から得られるアドバイスが全て正しいのでしょうか?私は違うと思います。

自分が信じる新しい道を創るのであれば、それらのアドバイスを真摯に受け止め、自分で選択し、責任を持って決めるしかありません。

人は自分が在りたいように在り、成りたいように成れます。
道は自分で選べるんです。

でもそれには自分の確固とした意志と行動、そして責任が伴います。

そして大事なのは、ルールを破って良いということではないこと。
納得できないのであれば、それを覆すための環境を創り、人の心を動かして理解を促していく必要があります。

子どもは怒られる時に、
「静かにしなさい。ここではそうしないといけないの。」と理由ではなく、”ルール”だからしなければならないと教え込まれます。親がなぜかを説明しなくて良い上に、とても効率的で楽だからです。

でも、この積み重ねが、良いか悪いかを考えずにルールやマニュアルに従う人を育てる結果になっていると感じています。

子どもの問いに答えられないことがたくさんありませんか?おそらくそれが、大抵そういうルールだからと言って教わってきたからそれしか伝えられないのです。

なぜなのか?そこを突き詰めていくと、新しい発見とたくさんの矛盾が出てくるはずです。

他にも「危ないから(怪我するから)やめなさい。」も勿体ない教育であると感じています。起こり得る現実を先回りして伸ばせる可能性を削ぐ行為です。小さな痛みや怪我を経験している人は、無謀なことはしないものです。

私は比較的都会で育ちましたが、恵まれたことに常に外で遊び、公園で転んで怪我をして、遊具を考えながら使いつつ時には痛い思いもしながら、子ども達同士で切磋琢磨して育つ環境でした。そのおかげで、人とのコミュニケーション能力や、東南アジア生活半年の間に一度もお腹を壊さないという強靭な身体や内臓を手に入れたのではと感じています。(笑)

でも今の子ども達は、怪我をするからと遊具がない公園を与えられ、外は危ないから出るな。暑いから出るなと言って育てられています。何もないグラウンドで、人に当たると危ないからとボールを使って遊ぶことを禁じられている公園もあるそうです。そんな場所で何をしろというのでしょうか?

これらは考えて生きることの機会を失わせる付け焼刃のルールです

できないことを提示するのではなく、どうやったらできるかを一緒に考える方が遥かに創造的です。

親が子どもを危ない目に合わせたくないと願うのは自然な心情です。でも、それだけにフォーカスすると、本当に大切な何かは見えなくなってしまいます。”子どもを守る”という本当の意味は、「子どもを信じて見守る」ということではないのでしょうか?

それでは、どうしていかなければならないのでしょうか?

意識をもって”なぜ”に向き合い、疑問を持つこと

このnoteを書くきっかけの一つにもなった、私がフォローしている「ヨシヒロさん」のnote『教育のたまもの』でも、私と似通った気持ちが綴られていました。

彼は通学している小学生をみたのをきっかけに、自分の子育てを通して日本の教育に問題を投げかけ、自分の子育てにも真摯に向き合っています。その彼の姿勢がとても素晴らしいのです。

私の現在のパートナーはアメリカ人で、現在日本とサンフランシスコで遠距離恋愛中ですが、もし彼と結婚し、子どもを授かった時は、子育ては海外でしたいと考えています。

それは、オーストラリアでの子どもの長所を伸ばして育てる教育法を目の当たりにしたり、ギャップイヤーというシステムに魅力を感じたから。
そして、オランダの子ども達の可能性を引き出す教育法なども知り、子どもの可能性を伸ばし、自由に伸び伸びと育てたいと感じているからです。

日本のただただ良い大学に入り、やりたいこともなりたい自分も分からずに教育を受けるよりずっと良いと感じています。大事なのは良い大学に入ることではなく、学びたいものがわかった上で学校を選び、目的意識を持って学ぶことだと思うからです。

もちろん私は日本で生まれ育ち、人との調和の精神、空気をよむこと、人の基本力を磨くことは自然に受け取り、学ばせてもらいました。でも、自分の特徴や、長所を伸ばすことをしてもらった記憶はあまりありません。

それらは自分で行動し、発見し、身に付けていきました。その機会も、ほぼ親や学校から与えてもらったものではありません。もちろん、親は私を信じ、それらを促し、サポートをしてくれたので私としては感謝しかありません。

でも海外では、すでに教育の仕組みとしてそれがあります。考えて生きることが既にカリキュラムに組み込まれている。これは大きな違いです。
私が専門学校の時にアメリカ研修旅行で感じたギャップも、こういうところから生まれていると感じています。

でも「ヨシヒロさん」のような心持ちがあり、日本の仕組みやルールに疑問を持って考えて変えていけないかと模索する親が一人でも多く増えれば、日本のその風潮も変わるはずだと思えます。

私も日本で行なわれている「森のようちえん」の試みはもっとその事について知りたいと思っていますし、シュタイナー教育に興味があるので、「日本シュタイナー学校協会」の試みにも興味があります。

自分の考える一番のベストの状態は、日本人がもっている本来の良さを教育に活かし、更に世界の良さを取り込んだ教育なのです。

日本人の基本力の高さを日本で生まれ育つことによって培い、それらを世界に出て活かせた時に、私は日本を、そして日本人であることを誇らしく思えました。日本に生まれ育って、心底幸せで、本当に恵まれていたと感じています。

また時を同じくして、別の3人の子どもを持つ同じ年齢の女性の話を聞きました。

彼女は自分がどうしても必要と思えない親同士の会合や懇親会に参加しないことや、イベントごとに支給されるマニュアルのような準備表に納得できず反発することで、周りの母親から浮いていると話していました。クラスのライングループでもくだらないやり取りが続き、足並みを揃える事をどこまでも求められるのだとか。

彼女の言っていることで、私はいくつか共感する点がありました。遠足に行くのに、どのように準備しないといけないかのリストを渡され、その通りに準備しないといけないと言われることに対して、私は違和感を感じずにはいられません。マニュアルの通りにする事が最善で、それぞれが考えて準備するということを放棄することが推奨されるということでしょうか?

その懇親会にだんなさんが参加するだけでもおかしいと言われると話していました。世界では子育ては両親ですることが普通なのに、日本ではまだ母親のするものだと思っている人が多いのだなと感じました。

でも彼女が勿体ないのは、その反発や納得できないことの伝え方です。人はそれぞれ、自分が一番正しいと思う方法や考えを信じて行動しています。それらを無下にすると人は傷つき、そのことに反発します。

大事なのは相手に理解を示し、お互いに良い方法と距離感を模索すること。それができると彼女ももっと良い環境の中で自分の考えを周りの人にも伝えていけるはずです。お互いに無視をし合うという関係は、なにも生み出しません。

日本人はとにかく忙しい。仕事をしているお母さんなんて、自分の時間がない中で本当に多くの「~しなければならない」を課せられていると思います。

だから当たり前のことを考え、向き合い、解決する時間がなかなかないので、それらを学校や自治体に任せたくなるのは分かります。しかし、学校や自治体は問題が起こると自分たちがやり玉に挙げられるため、問題を起こさないルールで子どもたちや親すらも縛ります。こうなると、現状の責任は全ての人にあると感じます。

仕組みがおかしいなら疑問を持ち、必要であれば変える。
自分に余裕がないのなら自分を整える。
与えられていることに疑問をもてる意識をもつ。
考えが違うのなら向き合い、解決する。

それらのことをシンプルに実行できる人が一人一人増えることで、必要のない会合を開くことも、マニュアルを毎回制作することも、そうしなければならないという空気感もなくなり、良い流れができて無駄が省かれていくはずです。

日本はいらない書類と無駄な会合が多いと感じませんか?(笑)

まとめ

日本には「暗黙のルール」がたくさんあります。

それらを受け入れ、そういうものだと生きる生き方は楽で問題に当たらないかもしれません。

でも、自分はこういう考え方を持ち、このルールを守っているにはこういう理由があるという選択と、ただルールだから従っているという人には大きな違いがあります。

協和とは、自分の考えをもたずに合わせることではありません。それぞれが持っているものを合わせるから協和なのです。

そして令和の時代は間違いなく、日本にとって大きな転換が迫られる時代です。
日本の人口が減り続け、外から様々な国籍、文化、習慣を違う人達が訪れ、住まい、共に生活をするようになっていきます。

その時に、今のルールや常識に全てを当てはめ、物事がスムーズに、そして良い方向へ進んでいくと思いますか?その時に、自分の考えや”なぜ”を突き付けられた時に、あなたはそれらの質問に答えられるでしょうか??

これからの時代に必要なのは、私は理解と尊重、そして柔軟性と対応力であると思います。
それは人との関係にも、子どもの教育にも、全てに応用ができるはずです。

人を尊重してものごとを動かしていくことは、日本人が本来得意としていることです。日本人の良さを悪さとして示すのではなく、一人一人が意識をもってその本質を受け取り、これからのグローバル社会に活かしてバランスよく生きましょう。

思い浮かんだことを書き続けたらかなり長くなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。

このnoteをご覧いただいた皆様のご意見やご感想も伺いたいので、是非お気軽にコメントやメッセージを送ってくださいね。

小梅

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