皆さん、こんにちは。お読みいただきありがとうございます。今日はアメリカでのインターンシップ経験について書いてみようと思います。

初めてのインターンシップ ロングアイランド・NY

米国大学院留学2年目の夏休み、インターンを初めて経験しました。これは、夏休みの間、大学外の企業などでインターンを行うことで、授業の単位として認められるものです。自分で企業は見つけてきて話をつけなくてはなりません。何のつてもなかった私は、前職カメラメーカーでお世話になった上役の方に、マンハッタンから2時間ほどのロングアイランドにある小さなマーケティングの会社の社長さんを紹介していただきました。震える声で電話をかけて期間やインターン内容についてそのアメリカ人の社長と話をしたことを覚えています。緊張のあまり、何をどう話したかはさっぱり覚えていませんが、その会社の社長さんとしたら、恩義がある昔からの知り合いに頼まれて仕方なく、こんな英語もできない日本人を引き受けて頂けたのだと思います。大変ありがたいことです。

とにかくその夏の3ヶ月、私はロングアイランドにおり、なんと車を乗りまわしておりました。日本で免許すら持っていませんでしたが、ここでインターンをするには車が必須とのことでしたので、大学のあるIthacaでまず中古車を購入。古い日本の赤のアキュラ(ホンダ)で、走行距離すでに9万マイルほどのかなり使い込まれた、でも丁寧に乗っていたと思われる車を、ローカル新聞の売ります買いますコーナーで見つけ、確かイスラエルからの留学生より3000ドルで買いました。その後、インターン開始直前に免許をぎりぎり取得。正確には、ロングアイランドに引っ越してからようやく2回目の路上試験に合格した超・若葉マーク🔰ドライバーでしたIthacaからLong Islandへは仮免でしたが、友人に同乗してもらい移動しました。アメリカのすごいところは仮免(Learner's Permit)保持者でも、隣に免許持っている人が同乗していれば一般の路上でも高速道路でも走れることでしょうか(日の出から日没までの間のみ)。よくよく考えてみればちょっと恐ろしいことですが。

下宿は、同じく前職カメラメーカーの、NYに駐在している先輩社員に紹介してもらい、そのあたりで駐在している日本人に英語を教えていた南米系アメリカ人女性のアパートの小さな一室をお借りすることになりました。彼女とはよく夕食後に近所を散歩しながら話をし、仕事のこと、恋愛のこと、人生のこと、本当にいろいろな事を教えていただきました。私にとって第二の母のような存在でした。もう一つの部屋にはスコットランド系でナニー(ベビーシッターと類似の職業)をやっている女性が部屋を借りて住んでいました。

インターンその1 マーケティング会社

20人ほどの小さなマーケティング会社でした。私は無給のインターンですし、英語もまともに話せない厄介な日本人だったと思います。仕事は資料のコピー取り、テレマーケティング(電話をかけまくって何かを売り込む)、簡単なブロッシャー(カタログ類)の作成やら修正などだったかなと思います。日本で4年の広報経験があると偉そうに言っても、英語で勝負できない私はただの赤子同然でした。近くの席の黒人の女性がいつも「You've been so quiet! 」って声をかけてくれるんですが、日本の会社では静かに仕事をするのが常だったので、「なんで今日静かなのよ?」って聞かれても何と答えてよいかわからず苦笑していました。彼女はとてもおしゃれで長い爪(くるりと回るほど)をカラフルに彩っていました。時にはお昼休みに一緒にショッピングしに行ったこともあります。そういえば、そのころたまごっちがアメリカでも流行っていて、ロングアイランドのトイザらスで並んで購入した記憶があります。仕事中もたまごっちに餌をやったりトイレの世話をしていたことを覚えています。

インターンの途中で大学の教授が様子を伺いに電話をかけてきてくれた時、「つまらない仕事ばかりで嫌になる」と、文句を言ったことを覚えています。今になって思えば、英語もろくにできない日本人が何を言う!と思いますが、当時の、身の程知らずだった私には、自分の英語ができないことを棚に上げて、一流企業で働いた経験のある私、大学院に行ってる私にこんなつまらない仕事しか与えない、と会社のことを悪く言うことで、自分のプライドを守り、英語ができない自分をごまかしていました。穴があったら入りたい。お恥ずかしい限りです。

夏のロングアイランド

仕事はさておき、夏のロングアイランドはそれはそれは素敵なところでした。さすが、スピルバーグやダナ・キャランなどアメリカ中のお金持ちの豪邸や別荘が軒を連ねる所だけあります。5時きっかりに仕事をあがると、週末まで待たずともその時間からビーチに行ってもまだ太陽はサンサンと輝いており、裸足で人影もまばらな砂浜を散歩したり、本を読んだりできます。牡蠣を始めとするシーフードのおいしい素敵なレストランもたくさんありました。近所の駅前でハーレーダビッドソンにまたがるワイルドな人たちが週末になると50台くらい?集まる集会が行われているのに遭遇したこともありいます。すごい迫力でした。また、週末になるとさまざまなコンサートが行われます。ティナ・ターナーというパワフルな女性ボーカリストのコンサートに行った思い出があります。すでに50代後半だったと思いますが、ステージ狭しと歌って踊って、これぞまさにThat’s entertainment! その迫力にただ圧倒された覚えがあります。そして前座がなんと、シンディ・ローパーでした。当時、身重だった彼女は大きなお腹の上にギターを乗せてあの名曲のTrue colorsなどを歌ってくれたのですが、心に沁み渡りました。思い出に残る夏の一コマです。

大学院修了 揺れる思い

当時の私は、アメリカに残って就職するか、日本に帰国するか非常に揺れ動いていました。実のところ、就職試験を受けたマンハッタンの広告代理店からオファーをいただいていたのです。実際に、住むところをいくつか見て回ったりもしていました。でも、英語力にも自信がまだなく、また、家賃も高く、非常にCompetitiveなアメリカで、このままちゃんと生きていけるのだろうか?という大きな不安があったのです。

あれから25年経った今、「残ってやれるだけやってみれば良いんじゃない?ダメならダメでした、って帰ってもそれで良し」とその時の不安だった自分に言ってやりたい自分もいるのですが、その時は、とにかく自信がなくて、怖くてその一歩を踏み出せなかったのでした。迷っていたところに、ある方のご縁で、アメリカのPRコンサルティング会社(当時アメリカのPRトップ5の会社)のWashington D.C.オフィスでAdvanced Internの仕事を得ることになりました。当時そのPRコンサルティング会社が立ち上げたばかりの日本法人に、帰国したら私を創立直後のスタッフの一人として迎え入れてくださるという前提で、その会社をよく知り、経験を積むためにWashington D.C.のオフィスで少しだけインターンをさせていただくことがオファーされたのでした。

2度目のインターン ワシントンD.C. PR会社

大学院修了を待って、Washington D.C.に南下しました。Ithacaのような田舎町にいた私にはWashington D.C.は、これまたすごい大都会で、素晴らしい街でした。適度に都会で適度に田舎・・・という感じでしょうか?ホワイトハウスに各国の大使館などなど、非常にコスモポリタンな反面、ちょっと郊外に出ると緑豊かで自然が広がっている、さすがアメリカの首都でした。全米桜祭りが行われるポトマック公園(Potomac Park)、スミソニアン博物館や美術館が立ち並ぶNational Mall、世界中のレストランが集まるAdams Morganなどなど・・・刺激がたくさんありました。ここでの下宿は、近くのAmerican Universityの掲示板で探した、黒人の退役軍人(コックさん)の方のおうちの一室でした。非常に優しくて寛大な男性でしたが、足が悪くて一日の大部分を椅子に座ってテレビを見ているような状況でした。ほかにロシアからとスゥエーデンからの留学生の女性が2人と犬が2匹いました。

PRコンサルティング会社での仕事は、やはり雑用が主でした。コピー取り、各種リサーチ、ヒル・ドロップ(ヒル=キャピトル・ヒル ”Capitol Hill”で、連邦議事堂、最高裁判所、議会図書館がある小高い丘一帯を指す。ここでは、日本でいう官邸記者クラブみたいなところにプレスリリースをドロップ(配布)しに行くこと)、記事をまとめてコピーして社内配布、そんなところでしょうか。様々な政府機関の中枢ですので、PRはもとより、Government RelationsやLobbying活動が盛んでした。当時日本ではそのあたりのことをやっている会社はほとんどなかったと思いますが、本場アメリカでは、さまざまなAssociations(例えば、全米○○協会みたいな)に向けての業務が多かったように記憶しています。もちろん、短いインターン期間の中では、重要なプロジェクトに関わることはありませんでしたが、国の経済や政治を動かすのはこういうことなのだ・・・ということを垣間見ることができ、大変貴重な経験をさせていただきました。強烈な思い出として蘇るのが、ヒルドロップに行く時に利用したタクシーです。

タクシーを片道で乗り捨てるのではなく、資料配布の間待っていてもらって、Round Tripをするように、と言ってタクシーチケットをもらって行くのです。その日は頭にターバンを巻いたインド系のタクシードライバーでした。Capitol Hillに着く手前で「戻るまでここで待っててね」と言えばいいや、と思っていたのですが、Capitol Hillに着くだいぶ手前で、タクシーに向かって手を挙げている男性を見つけると、その男性の横に急停車するのです。そして、その男性に「どこ行くんだ?」とか聞いているのです。そこで、「え?え?ちょっ、何してるの?え、その男性を乗せるの?私がまだ乗っているのに?」「そうだよ、なんか文句あっか?」という会話の応酬が繰り広げられます。タクシーをシェアライドするなんて今までの経験ではありませんでしたし、まだ先客が乗っているのに次の客を乗せようとする行為にもビックリして「ちょっと待ってよ、私、用事済むまで待っててもらってRound Tripでさっき乗ったところに戻りたいんだから!」と強く言うとやっとその男性を乗せるのを諦めましたが、「なんでそれならそうと乗った時になんで言わねぇんだよ!こっちはお前みたいな高給取りじゃないんだ、今ので一体いくら時間を損したと思ってんだ!ブツクサブツクサ・・・」とさんざん文句を言われました。高給取りじゃないしw。しかも、こちらはお客様なのに・・・・と憤慨しながらも、日本とはえらく違うタクシー・サービス事情も経験でき、ちゃんと文句を言ってドライバーに負けなかった自分を褒めてあげたいと思いますw。

同じ時期にインターンは私以外に5-6人いたと思います。イギリスからの一人の女性を除いて、残りは全員アメリカ人の大学生でした。男女半々だったかな。もちろん私は一番年長ではあるのですが、例のごとく、英語があまりできない赤ん坊のような存在でしたが、仲間外れにされることはなく、むしろ可愛がってもらえたのは幸運でした。学校では一生習うことのない生きたスラングを教えてもらったり・・・昼時になると ”Is anyone up for lunch?” なんてメールが誰かからインターン全員に回り、仲良く誘い合ってランチに行ったり、Happy Hourという早い時間にバーに行くと飲み物が半額とか安く飲める、そういうサービスを利用してインターン仲間と飲みに行ったりしました。なかでもお気に入りは誰でもはいれる国連のカフェテリアで、安くておいしいメキシカン・タコスなどが食べられました。夜はAdams Morganのいろいろなバーに行ったのですが、なかでも、キューバダンスが楽しめるキューバンレストランや、エチオピアン料理が私のお気に入りでした。

そんなこんなで、瞬く間にインターンの期間が終了し、名残惜しい気持ちもありつつ、日本に帰国することになりました。次回に続きます。

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