邪馬台国の謎 (13)
倭では、何かをする時や、どこかへ行き来する時に、骨を焼いて吉凶を占う。
占う前に、その目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。
焼いて出来た裂け目を見て、吉凶を占う。
会合をする際の立ち居振る舞いでは、親子や男女での区別はない。
倭人は酒が好きなようである。
大人(身分の高い人)と道で出会った際に敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。
人々は長寿で、百歳を超える者や、八、九十歳の者もいる。
大人(身分の高い人)は、みな四、五人の妻を持ち、下戸(身分の低い人)でも二、三人の妻を持つ場合がある。
婦人は貞節で嫉妬しない。
窃盗することがなく、訴訟のような争いも少ない。
法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する(奴隷とする)。
尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれが従うことで秩序が保たれている。
日本人は占い好きですが、この時代からなんですねえ。
頻繁ではないでしょうが、何か大事な決め事や、旅に出る際に占いをしたのでしょうね。
さて。この中で、良く分からないのが、寿命の長さです。
現代日本であればともかくとして、古代の倭で、80歳を超える長寿の人がそんなにもいるのだろうか、と不思議に思います。
これを説明するために考案されたのが、【二倍年暦】説です。
春耕し、秋収穫する。
春と秋。年2回年を取るという考え方です。
この説、結構、批判する方が多いですね。
そんなに批判するほどの悪い仮説じゃあないと思います。
古代天皇の年齢が長大なので、これを半分にすれば現実的になるという論に繋がっていくので、批判する人が増えてくるのだろうと推察しています。
個人的に、古代天皇の年齢は、むしろ天武天皇の占いや暦の知識により歪められた可能性の方が高いように考えています。
二倍年暦で一番気になるのは、40歳の人を見て80歳だと思えるかどうかです。極端に言えば、10歳だと20歳ですからね。
外見と年齢のギャップから、普通に、これはおかしいと魏の使者も感じると思うのです。
倭人は年齢を数えていなかったのではないか?
という仮説もありえます。
昔、タンザニア出身のマラソン選手で、ジュマ・イカンガーという強い選手がいました。
イカンガーは、年齢不詳です。
生年月日を重視していませんでしたし、年齢もあまり意識していなかったのでしょう。
マラソン選手として走るようになって初めて、年齢を尋ねられるようになったという感じです。
西暦200年頃の倭人が、年齢を数えなかったからといって、実生活上、支障が出るのかどうか?
我々現代人ですら、成人して社会人になってからは、あまり年齢を細かく気にしなくなります。(手続き関係では必要になりますが・・・)
ただ、卑弥呼のように、年長大にして・・・であれば、年齢を数えないという説で成立するのですが、100歳とか80歳といった具体的数字を出されているので、この辺り、不完全な仮説になると思います。
いずれにせよ、スッキリする明確な仮説は今のところはない状態です。
ただ、二倍年暦説。
東南アジアでは雨期と乾期でカウントしているので、その数え方が伝承され、雨期と乾期の代わりに春と秋を境目にして、夏の年と冬の年でカウントしたとしても、そんなに違和感を感じません。
また、『茅の輪くぐり』という伝統習慣もあります。
6月30日に行なわれる夏越の祓と、12月31日に行なわれる大祓の儀式があります。
この輪をくぐる回数を年齢としてカウントしていたとすれば・・・
違和感はないなあと思っています。
疑問に思ったのは、最初にも述べた、80歳と40歳。
見分けはつくよね、普通は・・・という点です。
(もちろん、例外的に老け顔や若作りの人はいたと思いますけどね・・・)
ということで、邪馬台国論争を調べていくと、
先に述べた「神武東征の謎」と同じぐらい「暦の謎」も出てくることになります。
古代史の魅力は、こうした謎が複合的に絡み合う所なのかもしれません。
租税を徴収し、それを保管するために高床の倉庫がある。
それぞれの国に市があって交易を行なっている。
大倭に、これを監督させている。
女王国より北は、特に一人の大率を置いて検察する。
諸国はこれを恐れ、はばかっている。
(大率は) 常に伊都国で政務を執っている。
魏における刺史の如きものである。
(邪馬台国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、朝鮮半島の国々に行く時や、帯方郡からの使者が倭国へやって来た時には、いつも、(伊都国から監督官が) 港に出向いてきて、調査し、確認を行なっている。
文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
下層階級の者が道路で貴人に出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。
言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地につけ、うやうやしさを表現する。
貴人への返答は『アイ』という。
(魏での「承知」を表す)然諾と同じようなものである。
このくだりを読むと、倭の国々は、意外にしっかりした官僚機構を持っていたように感じられます。
大倭、大率という官? がいて、かなり強大な権限を持って監督統治していたことが分かります。
伊都国は、道程の中でも、唯一、国王に関する表現がありました。
この辺り、非常に重要な国と思われる点です。
邪馬台国と伊都国は、どのような関係性があったのか、気になるところです。