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自分の決断を信じ、愛した28年でした。

はじめまして。
安慶名健吾(アゲナケンゴ)です。

今日は自己紹介を兼ねまして
これまでの私の人生をまとめました。

私の人生は一言に
「思い立ったが吉日」
というものでした。

私は自分の感情、感性の動きを大切にしていて
「なんだそれ!楽しそう!!」という事に全力でチャレンジしながら生きてきました。

振り返って見るとなかなか不器用な人生を送っているのですが私は私の生き方が大好きです。

そんな私のこれまでの人生を振り返っていきます!


1992年4月28日沖縄に生まれる。

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(安慶名健吾 2歳)
とにかく暴れん坊で手のかかる男の子でした。
あまりにも暴れん坊なので、沖縄の方言でおばぁから「ヤーチュー」という、お仕置きを受けます。どんなおしおきかというと、仏壇にあるロウソクに火をつけてロウを体に垂らすという沖縄古来のお仕置き。なのでおばぁが仏壇に向かって歩き出したら家の中を逃げ回っていました。
「悪いことするとヤーチューするよぉ〜」と襲ってくるおばぁ。ロウソクから滴るロウはものすんごく熱い。ものすんごく熱いのだか、ロウはすぐ固まるので火傷までにはいたらない。今思えば証拠が残らない日本一ギリギリのおしおきだったのかな...。

小学生時代

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(安慶名健吾 小学4年生)
低学年の頃まではまさにジャイアンのような存在でした。体も大きく、力も強かったため、力加減がわからず友達を怖がらせていました。体が大きくて小学6年生にして身長170cmオーバー。特に肩が強くて体力測定のソフトボール投げは60mが測定範囲なのですが、いつも余裕で測定不能でした。その恵まれた体のお陰で野球部ではエースで4番でした。

中学生時代


中学生時代を振り返ってみて1番に思い出すのは夏の陸上練習とギラッギラの日差し。それくらいしか記憶がないくらい部活の印象が強いです。目立ちたがりは変わらず、生徒会長なども務めて野球部ではキャプテンでした。

部活動では1年の時からレギュラーとして活躍。一見、悩みなどない元気いっぱいな少年のようですが、実際は悩む事が多く、主な悩みは同じ部員の部活動に対する態度でした。思春期真っ只中なので、一生懸命頑張っている奴=ダサい雰囲気が周りに漂っていました。そんな中でも自分の選手としてのセンスがあると信じていました。「何かに一生懸命没頭できる人はかっこいい!」という価値観も持っていたので、一人で走り込み、投げ込み、トレーニングなどを続けていました。コツコツと1人で練習していたある日「やる気もあって運動神経もそこそこあるのにこの部にいるのはもったいない」と客観的に思い、野球を辞めて熱血指導を行う顧問のいるバレー部に入ろうと考えました。そこでバレー部の顧問の先生と話をするために職員室に行きました。ですが職員会議中で会えず。もう1時間後に行ってみたところ、席を外しており会えず、、。
結局やめたい意思は伝えられませんでした。
今振り返ってみて思う事ですが、当時の私は多分、自分の努力を認めて欲しかっただけだったと今になって思います。野球部を辞めることをみんなから反対されたかったんじゃないかな?と。
エースで4番でキャプテンの私が辞めると言い出せば、きっと監督や部員たちの雰囲気も変わって何か物事が良い方向にいくのではないかと考えていました。子供ながらに環境のせいにせずに、自分で動いて何かを変えなければという感覚は当時から備わっていました。 
私の熱意と野球部の雰囲気は逆行しており、真面目すぎて野球部では浮いていました。ですがコツコツと自主練を続けていた結果、高校からスカウトの話をいただきました。校長室に呼ばれ校長先生、高校の監督、中学の監督と私で正式な推薦入学の話を受けました。その時の嬉しさは格別で本当に嬉しかったです。
コツコツ努力を続けていれば誰か見てくれている、頑張ってよかった。本当によかったと。帰り道にひたすらにニタニタしながら帰ったのを覚えています。
しかし残念な話ですが、その頃の私は周りの影響もあり、私の野球に対する熱はすっかり冷めていました。「高校は新しい部活を始めよう!」と気持ちを切り替えていたので、推薦入学の件はお断りしてしまいました。
その当時私は「あひるの空」というマンガに大熱狂中でした。ちょうどストーリーも主人公の
「車谷空」が高校に入学するところから始まります。自分の高校生活と照らし合わせながら読んでいました。なので
高校は思い切ってバスケをやる!
と決意しました。そこで思い切って監督コーチにその話をすると、「健吾はバスケがしたかったのか??」と、どこか腑に落ちない表情。村社会は狭く先生や友達、地域の大人から、
「けんごーは高校で野球をやらないのか?」とたくさん聞かれました。でも当時の私にとって楽しそうな方がバスケだったので全く問題ありませんでした。やりたいことがあるのにチャレンジしない方がもったいないと思っていました。
であれば妥協なく部活動に取り組みたいと考え強豪校を探してみました。すると「北中高校」という高校がヒット。さらに県内で有名な監督が転勤したということを聞き、
「今まで出来なかった分チーム一丸で全力で挑戦ができる!初心者が高校からバスケをすることは厳しいもしれないけど本気で自分の可能性を試す事ができる!」と北中高校に進学することを決めました。

中学時代の話で大事な話がもう一つ。
当時の私は邦楽ロックにめちゃくちゃハマっていていました。

ある日の5時間目の授業中。「何でもいいから楽器をやってみたい!」と思いつき、5時間目のチャイムが鳴ると同時にそのまま職員室に向かい、吹奏楽部の顧問の先生に入部の意思を伝え即入部。楽器は何かやりたいのはある?と聞かれ「かっこいいからサックスがやりたい!」と元気ハツラツに答えました。この頃から、私の人間性の核にあたる、「新しいことを始めることの楽しさ」に気がつき始めます。新しい事、つまり吹奏楽部に入ることは超ワクワクしました。他の学校の吹奏楽部事情はわかりませんがその頃の吹奏楽の部員は女子40人男子0人。完全に場違い感はありましたが男女問わず仲良くできたので中学生活の残りの半年は吹奏楽部として楽しく過ごすことができました。こちらも周りの大人や先生、友達から「なんでけんごーは吹奏楽部に入ったの??」と聞かれました。答えはもちろんワクワクしたから、楽しそうと私が感じたからです。

邦楽にハマり吹奏楽部に入部して次にやりたいことといったらバンドを組む事!そうと決まれば即ギターを購入。ギターを購入して練習しているうちに、バンドを組んでギターを引いている自分にどんどん臨場感が出てきました。これまたどんどんどんどんワクワクしてきました。ワクワクに勝てない私なので高校は軽音部に入ることを決意。
家から一番近い高校(と言ってもバスで1時間くらい)に軽音部があることを確認してその高校に入ること決めました。


高校生時代

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(どこで覚えたのかわからないLAポーズをかます)

2008年4月
高校に入学。いよいよ念願の軽音楽部に入部。同じタイミングで入部した3人とバンドを組みました。でも部員数が多く、部室が使えるのが週3回くらいだったので、余った時間に運動部に入ろうと思い、ゆるーく活動している運動部を探しました。すると楽しくワイワイした雰囲気のバレー部が目に入り、バレー部に入部。監督も試合の日にしか来ないような部活でした。
はじめは部活を掛け持ちしていたのですが、どちらの部活に対しても失礼だなと謎に真面目な部分が出てきました。根っからの体育会系なのでバレー>軽音楽部にだんだんとやりたいことは変わっていてバレー部の方に残ることにしました。
ゆるーく、たのしーく部活を続けていた時に心を熱くなるニュースが飛び込んできます。高校2年生に上がったばかりの頃だったと思います。私が通う高校のバスケ部の話ですが、そのバスケ部は私のイメージでは「いいとこ中の下」くらいだったのですが、一度中学の時に憧れたあの「北中高校」に勝利したというのです。正直驚きました。「県内で4強を争う北中高校に勝てるなんて」と。
でもバスケ部にはしっかりと勝てる理由がありました。私が2年生に上がるタイミングでバスケ部は監督が変わり、練習と雰囲気が外からみてもガラッと変化。鬼のようにコートを走り回り、コートが使えない日もめちゃくちゃに外練を頑張っていました。そんなバスケ部の姿と活躍をみてめちゃくちゃカッコいいな!!と胸が熱くなりました。その気持ちと同時にこのままゆるーく部活動を続けていたら卒業するときに後悔する未来が見えた気がしました。

絶対に後悔する。それは嫌だ。
やり切りたい。中途半端は嫌だ。

と強く思い3年生の先輩が卒業したタイミミングで部員全員を多目的室に集めて、バスケ部の快挙の話から、その時思っている私の素直な気持ちを話しました。

「どうせやるなら全力で
やり切ると決めて挑戦してみたい。」

中学生の時と違い、素直に思っている気持ちを伝える事が出来ました。気持ちを伝えると自然と決意が固まり、私の行動が変わっていきした。初めに行った行動は気合の丸坊主でした。なんともスポコンですが、「本気を形にしたい」との思いからの行動でした。監督が試合にしか来ない部活だったので選手をしながら練習メニューの作成なども行い、コーチ業務も兼任。部員の半分以上が初心者の部活でしたがみんな一生懸命についてきてくれました。目標をみんなで共有していたので目標に向かって一緒に歩いている感覚もありました。

ビジョンを仲間で共有してコツコツ練習を続けていると、成果もついてくるもので、私たちが所属する地域リーグは1部2部に分かれており、私が知る限り、バレー部は15年くらいは2部リーグでした。


そんな弱小バレー部は順調に勝利を重ね、、
見事に1部リーグに昇格を果たしました。

中学の時は1人で頑張っていただけなのでチームの勝敗ではなく自分のピッチングの事しか考えていなかったですが、チームとして部員、マネージャーみんなで目標を持ってつかみ取った勝利は格別でした。点が入るたびに大声を出して喜び叫びました。

そんな充実したバレー部も3年の夏で卒業し、、

進路を決めなければなりません。
将来については堅実的な考えだったので、大学にいって県内で就職するだろうと考えていました。そこで、進路の先生から大人になった今でも思い出す言葉をもらいます。

『大学に行くのもいいけどその前に健吾にはやりたい事は本当にないの?1日で起きている時間のほとんどが仕事をすることになるということは、人生のほとんどは仕事をすることになるんだよ?』

衝撃でした。
うまく言えませんがビリビリきました。
そして同時に将来に対して真剣に考えるように。そこからやりたい事はなんだろう?と意識しながら学校生活を過ごすようになりました。
アンテナを張っていると意外とキャッチするもので、学校説明会に行った時に説明を受けた、調理師学校がとても気になりました。父がフレンチのシェフということで、何かの運命なのか?と勝手に運命すら感じていました。父に調理師の専門学校の話をすると、なんと同じ学校を父も卒業していました。なにかを勝手に感じ取った私はその学校に行くことを決意。学校の場所は大阪。沖縄を離れ県外で1人ぐらしできる点もなかなか刺激的な選択。当時の私にとっては大大大冒険。

そして高校を卒業。
出発の日。泣いているおばぁと抱き合い
大阪へと向かいました。


調理師専門学校時代


2011年4月
大阪に着いた日のことをよく覚えています。あたりはすでに真っ暗。沖縄から離れて初めての一人暮らし。部屋には家具はおろか、テレビもなく、カーテンもなく八畳くらいの部屋に布団一枚だけ。表現する効果音はまさに「ポツーン」。
心が大きくざわついていたのをはっきりと覚えています。ざわわ、ざわわ程度ではすまない力で心が揺さぶられました。
心の底からこみ上げてきた言葉が、、、

「ッヤベェ、、っすげぇ楽しい、ドキドキする」

でした。俯瞰的に見て「肝が座っているか、頭がぶっとんじゃっているかのどっちかだな」と自分で思いながらもこれから始まる大阪生活を想像して、楽しくてたまらない気持ちになりました。

学校の紹介ですが、辻調理師専門学校という調理師学校は名実ともに日本一の調理師学校です。カリキュラムだけでなく、それこそ実習に使う食材までこだわる学校でした。そんな日本一の学校で新たに生まれた思いは

「男なら大きな挑戦がしたい!!海外に行きたい!」

という漠然とした、だけどシンプルで力強い気持ちでした。沖縄から一人で大阪に飛び出してきたので、自分の中の挑戦にかかる不安やプレッシャーのブロックは大きく壊れていました。
挑戦したい事が決まったので、すぐに先生に相談に行きました。その時の私にとっては意外な答えだったのですが、海外に行きたいのであれば和食、特にお寿司がおすすめと教えてくれました。それを聞いた私は進路を和食、寿司屋になることに決めました。
やりたい事を決めて、周りに宣言してアンテナを張っていると何かしら引っかかるとこれまでの経験から感覚的にわかっていたので友達や知り合い、先生などに「海外に行きたい」「寿司屋で働きたい」と言いまくっていまいした。すると学校の友達の紹介で大阪梅田にある寿司屋さんでアルバイトをさせてもらうことに。
タイミングもよくそのままそこで就職することになりました。

大阪寿司屋時代


2013年4月
念願のお寿司屋さんに就職したはいいものの、個人営業のため労働環境が控えに言っても黒。漆黒でした。業務時間は9〜23時で休みは週1日。そして年に2回しか2連休がありませんでした。
ですがメリットもありました。(←超ポジティブ)
入社したタイミングで人手が足りなかったのですぐに板前ですしを握らせてもらうことができたのです。

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(寿司屋時代)

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(年に2回しかない貴重な2連休は深夜バスで東京へ。帰りは東京24時発の深夜バスに乗り7時半に梅田につきそのまま出勤。深酔いの中バスに揺られてバスで吐く。)

そんな劣悪な労働環境下でとにかく働きました。40連勤したことなどもありましたが、海外で働いている自分の姿を想像すると、自然と頑張れました。その後もアンテナを張り続けお客様にも海外に行きたい事を猛アピールしていました。
するとある日、友達の寿司屋の大将の紹介で
「シンガポールに寿司屋をオープンさせたいオーナーが人を探している!」というLINEが飛び込んできました。さすがの私も少し考えました。いや今思い出すと考えているフリをしてみたのかもしれません。悩んで悩んで返事をしました。

「行きます!お話聞かせてください!」


2分後に返事をしてました。そして行くと決断してから、さらに2分後。とある疑問が生まれました。


「てかそもそもシンガポールってどこ?」

「何語を話すの?」

当時はシンガポールについて何も知りませんでしたが、私の感情は高ぶり興奮していてシンガポールどんな所かなどは特に気にしていませんでした。


どんな国なんだろうか?
どんな人がいるのだろか?
どんな出会いがあるのだろうか?


シンガポールに住んで、働き、遊ぶと
自分はどんな気持ちになるのだろうか?

「ついに安慶名健吾、海外寿司屋編がスタートするぞおおお!!」と思うと、現実味、臨場感がグッと近づき最高潮にドキドキワクワクしていていました。

シンガポール時代 前半



2015年3月
シンガポールに渡星して半年後、私は鉄板焼き職人としてカウンターに立っていました。

寿司屋と鉄板焼きをオープンさせたいオーナーを紹介してもらい、寿司屋として働く為にシンガポールに飛びました。2つのレストランをオープンさせる予定が寿司屋の方のテナントが契約の都合により破断に、、。
そして私はそのまま鉄板焼きレストランで働くことになりましたが、海外に来れたのでよかった!程度にしか当時は思っていませんでした。

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(鉄板懐石 皐月 タンジョンパガー店)


23歳の私にとって
シンガポールは超がつくほど刺激的でした。

気候や街並み、文化、五感で感じるもの全てが新しく新鮮に感じました。あと社宅がすごく綺麗でした。週末は積極的に外に出かけ、日本人ソフトボール部に入ってスポーツをしたり、週末はBBQや飲み会に参加。日本人もたくさんいたので「92会」と言う1992年生まれの会なども発足。とにかく飲んで、歌って、騒いでを繰り返しておりプライベートの面は思い描いていたイメージを遥かに予想を上回るものでした。

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(住んでいた家からの景色)

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(日本人ソフトボール会)

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(本当にお世話になった家。めちゃくちゃに楽しかった。)

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(あげちゃん主催の寿司パーティ)

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(日本人92年会BBQ大会 チーム戦によるゲーム大会)

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(マリーナベイサンズ インフィニティプール)


充実したシンガポールライフを思う存分満喫している中で私は、ある女性に一目惚れします。

これが恋だと思った瞬間
「告白しよう!」と決めました。

当時の安慶名健吾が考えられる
                    "史上最高”なプランで、、、、、

サブストーリー 〜全力の告白〜


シンガポールの強い日差しが差し込む高層ビルの中を、健吾は背筋をピンと伸ばして歩いていました。両手には真っ赤な花束を抱えて。

向かった先はスイスホテル。
シティホールにそびえ立つ一流ホテルです。


高層用エレベーターで向かうは Sky bar 。
押したボタンは LEVEL 70 。

Skyの名に恥じない、
なんとご機嫌な高さ、ロケーションなのでしょう

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(Swissotel The Stamford, Singapore)

待ち合わせ時間ぴったりの
1時間半前につきました。



受付のチャイナ服のウエイターに
花束を預け窓際の席に座り一息つきました。


「おっとおっと。俺とした事が少し早く
着きすぎたかな?景気づけに1杯飲むか。」





景気づけにビールを7杯飲んでました。



アルコールが入ってないんじゃないか?と思いました。

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(「ありたい理想の自分」と「心」のギャップに耐えられずビールをゴックンゴックン飲む)



私が席に座り、
1時間半ほど経ったころ彼女が登場。


時刻はPM6:00。
いい感じで夕日が窓に差し込んでいました。

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(ひたすらにまぶしかったー)



話は盛り上がり、気がつけばディナータイム。
ライブパフォーマンスも始まり、脳内は

「告白」「告白」「告白」

緊張感は最高潮に達していました。

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(いよいよ展開はクライマックス!)


席を外しチャイナドレスの女性を探しました。

花束を受け取り、
彼女の元へ向かいます。

身を乗り出して夜景を
眺めている彼女の名前を呼び
言いました、、、、、




「僕が一番幸せにします。付き合ってください」




思いつく限りの強い言葉を出来るだけシンプルにまとめたいと考え、一晩中考えて、この言葉を創りました。

彼女は驚いていて、
状況を整理するのに時間がかかっている様子でした。


少し沈黙したあとに、、


彼女は涙を流しながら、
笑顔で花束を受け取ってくれました。


「1番幸せにします」に込めた想いは
「どんな人よりも」という気持ちでした。

正直シンガポールはエリート駐在さんがたくさんいるので、日本人女性にとって出会いはたくさんあります。
当時24歳の私が31歳女性を落とすためにはこの先の人生を捧げるくらいの気持ちが必要でした。

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(出会ってから約1ヶ月後の話でした。)



そこからは彼女と一緒に旅行に行ったりしながら、幸せなシンガポールライフを送っていました。

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(オーストラリア パース グラビア風)

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(モルディブ)

大好きな人と過ごすシンガポール生活は
それはそれは楽しくて仕方がありませんでした。


ですが、仕事は正直楽しくはありませんでした。


シンガポール時代 後半


仕事が辛いわけではありませんでしたが、はっきり言って楽しいものでもありませんでした。
プライベートはものすごく充実していたのですが、仕事は完全に「作業化」していました。

いくら仕事だとしても楽しくないことをやり続ける事はどこか引っ掛かりがあり、何度も「それは仕事だから」と自分を無理やり納得させては、悩み、また考え、自分を納得させるの繰り返しでした。

特にそれを考えさせらたのが夜の残業時間中。
プライベートとの充実感とのギャップもあり、残業時間がめちゃくちゃに長く感じてしんどかったです。しばらくそんな「作業」のような状態が続いていると、20代という大事な時間がどんどんと削られていっている感覚になり、命が削られていくのを黙って見ているような感覚に襲われました。


選んだ道を後悔したくはないので、料理の本を買って勉強してみたり、食べ歩きにいったりして、好きになる努力を7年間全力で行ってきましたが、楽しくてしょうがない!とゆう状態にまではどうしてもなりませんでした。
プライベートでBBQや寿司を握るのは大好きなのでしたが、仕事になると完全に反復作業状態でした。「仕事はそうゆうもん」と思う人はいるかもしれませんが、私は

「仕事の部分も楽しくて仕方ない状態にできたら人生全部が楽しくて仕方がないものにできるじゃないか?」

と本気で考え、

「人生の全ての時間を自分らしく楽しく生きる」

ことを自分の中で誓い、転職を決意しました。


転職活動時代


2017年9月

私はシンガポールを離れ日本に帰り
ライザップに入社する事を決めました。


ライザップに決めた理由が大きく2つありました。

・天職だと思った
胸を張って大好きなものは?と聞かれて思いつくもので「スポーツ」が1番最初に思い浮かびました。スポーツは大好きと胸を張って言えるのでスポーツやフィットネスに携わる仕事をしてみたいと思い求人を探したのがきっかけ。それに、ライザップで働いている自分を想像した時にシンプルにカッコいいと思えましたし、食事指導も得意、人と関わる事も大好きなので、これは天職ではないか?てかむしろ俺を採用せずして誰を採用するんだ?とやったこともないのにどこか謎に強気でした。

・日本一料金が高い
もう一つの決めてはフィットネス業界で値段が 日本一高い(高いと思っていた)という点でした。日本一値段が高いのであれば日本一のサービスがそこにあるのだと思い、やるなら中途半端ではなくプロフェッショナルなトレーナーとしてこの先、生きていこうという強い気持ちでライザップに履歴書を送りました。

彼女と付き合ったばかりでしたので、ほんとに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ですが、将来の事を考えた時に、現状保ち続けてチャレンジしない方が大きなリスクに感じました。それに2人の将来のためにする自信と覚悟があったので彼女を残して先に日本に帰りました。

目標があればトントンと事は進み、
帰国後にすぐ面接を終え入社が決定。

決まった時にまず頭によぎったのは中学時代の時の事でした。あの時のあの選択があって今の自分があるとは思うのですが、あの時に高校で本気で野球をやっていればどうなっていたんだろう?と考える時もありました。いろんな経験をしてきたけど、見ようによってはどれも中途半端です。なのでこれからは今までの人生で溜め込んだ全ての経験値をトレーナーとしての成長に注ごうと強く決意を固めライザップの研修施設がある東京杉並区へ向かいました。

ライザップアカデミー

2018年5月
ライザップへの就職が決まり研修期間に入りました。他業種からの転職でトレーニングの知識に乏しい私にとって、研修期間はものすごくハードなものになりました。日本一のパーソナルトレーニングを提供する会社の研修なので当たり前といえば当たり前。特に実技のテストは本当に厳しかったです。次々と合格をもらう同期の中、私は合格をもらう事ができませんでした。

今ままでにない独特の雰囲気の緊張感のせいもあり、結局私は同期で一番最後の合格者となりました。

正直死ぬほど悔しかったです。

気合十分で入社しましたが完全に空回りの状態。緊張やプレッシャーなど怖いものなしだと思っていたこれまで生きてきた自分が、実技のテストになるとなぜかミスばかりしてしまっていました。それも本当に初歩的なものばかり。

「テストが苦手なだけ。合格さえもらえればこの中で誰よりも成果を上げられる」と心の中で毎日何度も唱えていました。それくらい空回りして、苦戦していました。

ですが配属さえされたら誰よりも成果は必ず出せると自分を信じていました。なので店舗に配属になったら誰よりも行動して誰よりもはっきりわかる成果を出してやろうと心に決めていました。

苦戦はしましたが本当に優しく人間力に溢れる同期たちに支えられてなんとか合格をいただく事ができました。

研修最後の日はみんなで円になりそれぞれの思いを話したのですが、大きなプレッシャーから解放された安堵感もあり、みんなで涙しながら今後の決意、思いを語り合い、日本全国にある店舗へと旅立っていきました。



ライザップトレーナー時代 前半

2019年10月

トレーナーとしてデビューして約1年後。
私は同期最速でトレーナーとしては最上位の役職にあたるアドバンスドチーフトレーナーに昇格しました。
ちなみ現時点でもこの役職についている同期はいません。

私がゲストの為に使った「行動量」は日本一だったと思います。それくらい「行動力」には自信がありました。要領が悪い事は自分で理解していたので、ゲストへの強い気持ちで結果を出すと決めていました。トレーナーとしてスキルや経験が足りない事も理解していたので、ゲストが思っている金額に対する期待や成果そして満足感を満たすためにはなにができるかを考えた結果「自分の時間を可能な限り使うこと」を選び実践しました。

とにかくひたすらにゲストのことを考え、帰宅後は夕食を食べながらトレーニング、食事の勉強。休みの日も関係なしにゲストへの資料作りから、カルテチェック、食事チェック、メニューの見直し、、。

「ゲストが期待する結果をはっきりと出す」
「圧倒的にゲストに寄り添う」

この2つに注力して、体力の限り、それらを泥臭く続けました。半期評価の際に自己評価を書く欄があるのですが「日本一ゲストの為に時間を使います」とびっしりの決意の文章と共に書き込み、日本一泥臭く時間を大事なゲストの為に捧げました。
「自分の時間を使う」事に関して賛否はあるかと思いますが、自分の弱点と得意分野を把握して勝てそうな得意分野を見極めて勝負した結果だと思っています。


2年間のトレーナー生活の中で
自慢できる事、誇りに持てる事があります


それは「セッション96回契約」を合計3回
ゲストと結ぶことができたことです。


「セッション96回契約」とは、週2回のトレーニンで計算すると1年間の期間にあたる、ライザップで契約できる一番大きなプランになります。金額は120万を超えます。

この契約をいただくためには信頼関係、トレーニングなどはもちろんのこと、トレーニング以外の要素も必要とされます。

いろんな要素がありますがその中でも
私がゲストに対して1番大切にしていた想いは

「ゲストの人生に覚悟を待って接する」

事でした。
その「ゲストの人生に覚悟を待って接する」事を自分自身で体感できる事が実際にありました。

それは初めて私が
96回のセッション契約をいただいた時の話です。その方は60代男性。入会時に減量の為、3ヶ月契約で入会。その後プラスして2ヶ月間の再契約をいただき、体の維持をする指導を行なった後の3回目の再契約でした。

「1年間。安慶名健吾と一緒にトレーニングしたい!!」と思ってもらえるすべてのメリットを考え、念入りに準備をしていました。トレーニングが終わりカウンセリングルームに移動。これまでの体づくりの歩みや、これからどんな人生にしていきたいのか?その為にどんなトレーニングが必要なのかを2人で真剣に、ですが楽しく未来の自分について話し合いました。

そして、私が提供することのできる最高のプランを出し惜しみする事なく全て伝えました。


「この金額なら安い車なら買えそうだねぇ」


と提示した契約書を笑いながらみていました。


私は


『安い車より、なによりも使用頻度の高い、一生物の「最高級の体」を一緒に作っていきましょう。車を買うよりも価値があるものを提供できる自信があります。是非一緒に1年間トレーニング行ってみませんか?』

と気持ちを込めてクロージングしました。

事前準備したものはいろいろあったんですが、
結局私は提案材料として
自分自身の覚悟と自信を提示しました。
するとゲストは改まった表情で、、、

「それでは1年間よろしくお願いします」

私と過ごす1年間にお金を払ってくれました。


「トレーナーとしての最大の評価をいただけた」と今までに経験したことのない嬉しさが一瞬で体全体を巡りました。

ですが不思議と全身を巡った喜びの感情が、一瞬で消え去り、なんだか体が冷たくなるような感覚に襲われて体がゾクゾクしました。

契約をいただいた後に、

1年間毎週2回のセッションでその人を満足させ続けなければならないというプレッシャーで一瞬ものすごく怖くなったのです。

でも怖いなりに1年間満足させる覚悟だけはありました。

そこでトレーナーとして生きていく上で私の芯となる「覚悟」という部分ができました。

覚悟を持って1年間パーソナルトレーニングを続けました。筋トレ、食事以外にもたくさんの事にアプローチをかけました。パーソナルトレーナーとして私の価値を全てぶつけました。

1年後私はその方から再び
96回の契約をいただく事ができました。

現時点のトレーナー人生で1番誇り高い瞬間
あたる出来事でした。


ライザップトレーナー時代 後半


2020年5月
入社から2年が経ちました。仕事には充実感があり、会社からも評価してもらい仕事、プライベートも楽しくする事ができていました。

でも、どこか物足りなさを感じていました。
シンガポール時代に描いていた状態に似ているけど、もっともっと自分がチャレンジ、成長、活躍出来るフィールドがあるのではないかと考えるようになりました。ライザップ に入社した頃は仕事を早く安定させる事を求めていたのに、なぜか性格的に安定してしまうと、途端にソワソワしてしまっている自分がいるのです。
ですがゲストを最大で30人同時に見ていたこともありそれなりに忙しくさせてもらえていたので特にそこは深く考えずにお客さんに向き合い続けていました。

そんなある日、、


世界中を巻き込む事態がおきます。

2020年4月新型コロナの影響により東京都に緊急事態宣言が発令されました。その影響で東京のライザップ全店舗の営業がストップしました。

はじめ私はとても楽観的な気分でした。時間ができたので普段出来なかったインプットをひたすらして、自粛期間を使ってトレーナーとしてめちゃくちゃ成長してやろうと考えていました。
毎日パソコンをつけていたので沢山の情報が目に入ってきました。普段あまりSNSをみる事がなかったので、フィットネス関係も含めて沢山の人たちがSNS上で活躍している姿を見ることになります。そんな沢山の人たちのSNSでの活動を見ていると「もし会社が倒産したら、トレーナーとして自分だけの力で生きていけるのだろうか?」と考えるようになりました。トレーニングを会社外で提供する事はもちろん、トレーナーとしてのSNS活動も許されていない会社だったので、自粛期間中はトレーナーとして全く活動ができませんでした。環境によって無理矢理休まされている感覚でした。
悶々としている中でライザップでもオンライントレーニングのサービスを提供することが決定。しかし受けたこともないものを人に提供はできないと思い、YouTubeをみていたときにたまたま目に入ったGOAL-B主催のオンラインボディメイクバトルが気になり思い切って応募することにしました。
自粛期間中にGOAL-B代表のAKIOBLOGのコーチングの記事を読んでいて「今まで言葉にうまくできていなかったけど、コーチングというものを通してゲストにトレーニングを提供していたんだ」と自分なりのトレーナーとしての在り方やスタンスを再認識できていたところだったので、面白そうだと思った瞬間、応募フォームにアクセス。オンライン企画に参加することにしました。

オンラインでのトレーニングは、はじめの5回程度受けさせてもらった後に、どうしてもコーチングというものを体感してみたく、トレーナー兼コーチでもあるレッツゴーなぎら氏に懇願してコーチングを受けさせてもらうことになりました。

コーチングというものを一から教えてもらったのですが、「私がライザップで提供しているものと本当に近いものだ」と再認識。私が2年間手探りでゲストに提供していた、言葉にしにくい「気持ち」や「考え方」の部分が「認知科学」という名称で論理的に文章に起こされていたように感じました。

そのコーチングを受けている途中で

コーチングを、学べばトレーニングとコーチングを組み合わせたまだ名称として存在しない新しい何かになれるんじゃないのか?

と新たな自分を想像して気持ちが高まりました。トレーナーとして、だけどトレーナーに縛られず、人の人生の目標を叶えてあげられる存在になりたい。2年間働いて築き上げていたバラバラの感情が一つにまとまりました。


トレーナーとコーチが融合した、
今はまだ名前のない存在になるためにライザップの退職を決めました。


退職を決意 そして現在へ

2020年6月

ゲストに恵まれ、会社からも評価してもらい、恵まれた環境だと自信を持って言える中、転職を決意しました。

全ての時間を自分らしく楽しく生きるため。

もっともっと、成長できる。
トレーナーとしての進化を自分に起こせる。

これを叶えるために私が選んだ会社が
GOAL-B という会社です。現在コーチング事業部とフィットネス事業部が大きな柱としてあります。

GOAL-B の理念はズバリ

「人の進化をつくる」

私はこれまで人との関わりを通して
体だけでなく心の変化も作ってきました。

GOAL-Bの一員として、トレーナーを超えた存在、より洗礼された私を通して人の進化をつくっていけると確信しています。

そして、私自身の進化も
GOAL-Bを通して作っていきます。


人の進化をつくる 
と熱い理念からも分かる通りに代表も熱い男です。ある日こんなLINEが届きました。

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こんなに人生をワクワクさせてくれる会社はありますか?このLINEで気持ちがブチ上がりました。もはや私の楽しくて仕方のない人生の為にGOAL-Bが存在しているじゃないか?と思えるくらい、この展開に運命を感じ、気持ちが熱くなり、鼓動が高鳴りました。

私は「仕事」とか「プライベート」ではなく、

全ての時間が自分の「人生」

と考え

「トレーナー」として、「安慶名健吾」として

誰よりも自分の人生を楽しんでやります。


私は私の決断を認め、絶賛し
人生すべての時間を最高に
楽しんで生きていきます。




最後に


最後になりますがここまで
読んでいただきありがとうございました。
今思うこと全てをここに書きました。


2020年9月現在、
私はGOAL-Bの一員として
名古屋でジム作っています。

日本一熱いジムを作っています。
我々の燃え盛る心の火を日本のド真ん中から
日本全国へ燃え移らせていきます。

いつかあなたに「日本一熱いジム」で
直接お会いできる日を楽しみにしてます。

一緒に心の火を燃やしていきましょう。

トレーニングジムGOAL-B 店舗責任者 安慶名健吾


■追記

2020/1/15
安慶名健吾はフィットネス事業部からコーチング事業部に籍を移し、
プロコーチとしてデビューしました。
こちらにジムのその後を少し書いてありますのでよろしければどうぞ!


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トレーニングジムGOAL-B店舗責任者。
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