マガジンのカバー画像

ホロコーストを疑っている人のために

328
かつてナチスドイツが行ったホロコーストを「なかった」という人たちがいます。それらの主張の代表的なものを、ある海外サイトを参考に論破する試みです。
運営しているクリエイター

2021年2月の記事一覧

ホロコースト否定論への反論入門(1)

0.はじめに0.1 ホロコースト否定論への誘いホロコースト否定論は、実際日本のネットでもしばしば見掛けられ、決して珍しいものではありませんが、そうは言っても、日本の歴史修正主義は、従軍慰安婦問題や南京虐殺、731部隊など、日本が関わる問題に集中しており、ホロコーストへの否定論はあまり盛り上がることはないようです。ホロコーストそれ自体への関心もそれほど大きいものとは思えません。 日本の歴史問題に関しては、まず、南京虐殺ならば、南京虐殺否定派が存在し、そしてアンチ否定派が存在す

アウシュヴィッツの様々な議論(24):ヴェッツラー・ヴルバへの否定派の反応。

ゲルマー・ルドルフの場合。歴史修正主義研究会からの翻訳記事によるゲルマー・ルドルフの主張。 4.5.7 ルドルフ・ヴルバ、アルフレド・ヴェツラー (中略)  次に、報告に記載されているアウシュヴィッツの図面は虚偽です。とくに、焼却棟ⅡとⅢの粗雑なスケッチがそのことを示しています。 ・ ヴルバはそれぞれ4つの開口部をもつ9つの炉を描いていますが、実際には、それぞれ3つの開口部をもつ5つの炉でした。 ・ ヴルバは、二本のレールがガス室と炉室とをつ

アウシュヴィッツの様々な議論(24):脱走者ヴェッツラーとヴルバ、そしてアウシュヴィッツ・レポート。

註:本記事は2021.7公開予定の『アウシュヴィッツ・レポート』の元になった、タイトルのアウシュヴィッツ報告書を紹介するものですが、映画の話は一切ありませんのでご了解下さい。映画を知らない時期に投稿した記事です。ただ、ここを追記で書くついでに、映画に肖ってトプ画を変えてみました。  最近訳したフォーリソンの論文にこうありました。 ここに書かれた人名で知っていたのは、二人の否定論者だけだったのですが、太字強調した人名はどこかにうっすら記憶が残っていました。誰だったかな? ど

アウシュヴィッツの様々な議論(23):考察:何故アウシュヴィッツの最初の死亡者数推定値は400万人だったのか?

今回は最も短い記事になります。単なる考察です。 アウシュヴィッツの死亡者数推計値、400万人という数字は既に否定され、現在はユダヤ人だけで110万人、非ユダヤ人を含めると150万人となっています。400万人という数字は、ソ連のアウシュヴィッツに関する報告書、またはポーランドが発表した数字などと言われておりますが、どう考えてもアウシュヴィッツ火葬場の遺体処理に当たったゾンダーコマンドの生存者の証言が元になっていると推定されます。 ヘンリク・タウバーの宣誓供述書(1945年5

アウシュヴィッツの様々な議論(21):『死の軍団』は最初の始まりはR.フォーリソン……まさかこんな話だったとは。絶句。

『死の軍団(Legions of Death)』はジャーナリストのルパート・バトラーが著した本ですが、この本にはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスがイギリス軍によって逮捕された時の状況が、その逮捕を担当した当事者への取材によって詳しく記述されており、修正主義者たちは「やはりヘスに対して拷問があったのは事実だった!」と騒いだようです。 この『死の軍団』を最初に扱ったのが誰なのかは知りませんが、ロベール・フォーリソンの論文記事で取り上げていたのがどうやら有名なようです。

緊急掲載:雑誌プログレッシブの1949.2号にあった問題記事の翻訳。「1370人って何の話だ?」

※初投稿時以降の追記あり: その後もやりとりしていて、どうもこれとは真相が違うんじゃないかという部分があります。一応それを該当箇所に「追記:」しています(2021.2.17)。 以下の以前の翻訳記事で、シンプソン判事が「証拠は全くない」、書いたであろう当の本人ローデン判事が「私は書いていません」と断言したその記事を翻訳します。 一体どうして、この話が否定論者に使われるようになったか、は多分ですけど、アメリカの誰かがこの元になった記事に関する話を覚えていたから、だと思われま

アウシュヴィッツの様々な議論(19):アウシュヴィッツ裁判記録から。フィリップ・ミュラーの証人尋問-01

加藤論文批判を終えて、またアウシュヴィッツに関する記事になります。ゾンダーコマンドの尋問調書や巻物などを翻訳してみると、やはりそれなりに資料価値が高く、貴重な知見が得られました。今回は、ueko1911さんからアウシュヴィッツの資料はここにあるよ、と教えてもらったので、その中からまずはフィリップ・ミュラーの裁判記録を翻訳します。 アウシュヴィッツ裁判とはフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判とも呼ばれ(戦後すぐのポーランド・クラクフでのアウシュヴィッツ裁判(1947年)とは別

「歴史修正主義研究会」主催者であろうと推定される、ある研究者の論文の欺瞞を暴く(3)

今回は前回の続きからなので、いつもの前置き文なしで、進めます。一応、批判対象論文は同じですがこれです。 この、77ページの後半からになりますが、先ずは金網投下装置の話です。これについては、以前こんな記事をあげています。 加藤論文への批判とは少し離れます。私は実はこの記事の、翻訳元にあった最初の金網投下装置の図は、どうもおかしいと思っていました。 アルシュタインという人が、1996年に書いたそうですが、おかしいのは天井に突き出ているところ、要するに煙突幅が70cmもあるこ

「歴史修正主義研究会」主催者であろうと推定される、ある研究者の論文の欺瞞を暴く(2)

文教大学の加藤一郎氏(歴史修正主義研究会は加藤一郎のみで成り立っていたと私は断定しています)の信じ難い面は、大学教授でありながら学内とは言え自らのそのホロコースト否認論を論文にして公式に公開する神経と、その他に、海外の否認論文を大量に翻訳して公開しているところにもあります。 ホロコースト否認論を紹介するな! と言っているのではなく、それは学者としての成果ではないからです。学者が海外の論文を翻訳して公開することはよくあることですが、歴史修正主義研究会サイトのように、あんなに大

「歴史修正主義研究会」主催者であろうと推定される、ある研究者の論文の欺瞞を暴く(1)

歴史修正主義研究会とは、これのことである。この会は、どこをどう読んでも、文教大学の教育学部大学教授であった加藤一郎氏一人によるものとしか読めない。他の人の名前はどこにも出てこないからである。 唯一、関係者として登場するのは、石川裕之という人物だけである。 これ以上のことは調べていない。「石川 裕之」はこれが掲載されている論文検索サイトのCiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])に、同姓同名の人物は何人かいるようだが、おそらく関係者である石川氏の論文は見当たらない。

アウシュヴィッツの様々な議論(18):ルドルフ・ヘスの不倫・愛人問題と戦時中に書かれた「ガス室」。

「お前はルドルフ・ヘスを何度記事にすれば済むのだ? お前のルドルフ・ヘスへの信頼は異常だ」と意見する人がいるかも知れませんね。確かに過去、何度もアウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスを記事にしております。 だって、見つかる記事が多いし、ルドルフ・ヘスは最大の重要人物だし、否定派だって何度もルドルフ・ヘスをやっつけようとするし、しょうがないじゃないですか―みたいな。ですが、ルドルフ・ヘスは最重要人物ですが、ヘスが嘘を言わなかったのかと言えば、そうでもありません。 ヘスの自伝を

アウシュヴィッツの様々な議論(17):ルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での衝撃的証言。

アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスは、自伝の中で次のように語っています。 今回は、ここに書かれたヘスの言っている、ニュルンベルク裁判でのカルテンブルンナー被告側の証人として出廷したヘスの証言を翻訳します。 これを翻訳する意図は、個人的な興味としては実はたった一点だけです。それが何かは、翻訳後のところで述べます。ところで、このカルテンブルンナーの裁判に出廷したルドルフ・ヘスについて、日本のホロコースト研究で著名な芝健介氏は、上の引用箇所を同様に引用した後に続けて、次

アウシュヴィッツの様々な議論(16):アウシュヴィッツの「バンカー(ブンカー)」と「火葬場のゾンダーコマンド」については証言だけでなく文書の裏付けもある

今回、訳す記事は二つです。 先ずは、「ブンカー」と呼ぶべきか「バンカー」と呼ぶべきか、非常に迷う、1942年春先ごろからビルケナウの敷地外の農家を改造して使われていたガス室及び付随するバラックや死体埋葬・焼却壕の話から。 これらの施設は、一般的には、「証言しか証拠がない」と言われてきたのですが、文書資料はありました。とりあえず、短いのでさっさと訳してしまいましょう。 ▼翻訳開始▼ ドイツの文書は、ビルケナウ・ゾンダーコンマンドのバンカーサイトと死体処理活動を確認してい

アウシュヴィッツの様々な議論(15):「アウシュヴィッツの巻物」に関するまとめ。

今回の翻訳は、アウシュヴィッツの巻物に関するHCサイトブログ記事にあったまとめ的記事です。 紹介というか解説のために翻訳しただけなので、私からは特にコメントはありません。 ▼f翻訳開始▼ アウシュヴィッツ・ビルケナウにおける大量殺戮に関する当時のゾンダーコマンドの手記 当時のゾンダーコマンドの手書きの文章は、いわゆるユダヤ人ゾンダーコマンドが絶滅現場で遺体の撤去と処理に従事したものである。原稿はアウシュヴィッツ強制収容所の運営中に書かれたもので、火葬場の近くの地面に埋