小説「poco a poco acceel amorosamente」(恋人を喪った安田短歌展2018より再掲)

 息が吸えない感じがつらいので、よれたスーツの内ポケットからぐしゃぐしゃになった煙草を取り出した。頑張って頑張って禁煙したはずなのに、いつだって復活はたやすい。吹き付ける冷たいビル風に追われて、そっと火を灯そうとするけど、出てくるのは火花ばかり。いつ買ったんだっけ、このライター。まあ、どうでもいいんだけどさ。
「あーあ、まっじいなぁ」
久々に吸ったマルボロは、葉が湿気っていたせいか、なんとも言えない苦みとイガイガする感覚が喉に広がっただけだった。ジジジ…と言いながら赤くなり、白っぽい灰へと変わる様を眺めながら煙を肺に入れる。ゆっくり吸って、勢いよく、フッと。ゆらゆらと揺れて、たなびきながら風景に紛れていく姿は、空っぽのまま焼かれていく君みたいで滑稽だ。
 貴重な昼休みをぼけっとふかしていると、携帯が静かに揺れる。仕事の呼び出しだろうか。事態は収束したとは言え、官僚の僕らにとってはここからがスタートだ。
「全く、誰だってんだよ」
誰も聞いちゃいないはずなのに、つい声に出して言い訳してしまうのはなんでだろうか。急いで携帯を取り出しホームボタンを押すと、そこには過去の僕からのお知らせが表示されていた。

【忘れないこと】下駄箱の右奥 箱入り

 工事現場の一角が、いつの間にか赤と緑に彩られている。ああ、そろそろ四十九日だ。


poco a poco acceel amorosamente


「ねえねえ安田くんっ」
ただいまを言う前に、ドタバタと黄色い塊がリビングから駆け寄ってくる。勢いをつけすぎたのか、はたまた確信犯なのか、ボールのように胸元に飛び込んでくる塊を受け止めながら頭に手を回す。玄関のオレンジっぽい照明の下で、痛みきったせいで金絹糸のように見えるセミロングが乱反射をした。シャネルの香水に混じる、隠しきれないアルコール臭。またビールを飲みながら、報道番組でも見ていたのだろう。
「ただいま。近所迷惑になるから静かに歩きな」
「ねえねえねえってば〜」
メイクは落としたのだろうか。スーツに頭をグリグリ押し付けるなら、それくらいの常識、持ってくれたらいいんだけど。
「ご飯は食べてきた。仕事は忙しい。他は?」
「そんなんじゃないよ〜、仕事のことはニュースで見たから知ってるってばぁ〜」
私ね、今年のクリスマスプレゼント決めたの!
 やっと僕から離れたかと思えば、満遍の笑みで彼女は言う。こういう時の表情はくだらない悪巧みを閃いた子どもみたいで、とっても愛しくてたまらない。
「早くない?まだ十一月に入っただよ?」
内心を悟られないように細心の注意を払いながら返事をすると、ゲヘヘ〜と言いながらだらしない顔をしながら黄色い人は飛び跳ねた。
「ええ〜、だって安田くん忙しいじゃん〜。去年だって同じこと言って、結局ディナーをキャンセルしたし。だから、今年くらいは仕事なしで一日ちょーだいよー」
いいじゃんお願い〜他には何もいらないから〜、と駄々こねモードに入った彼女をあやしつつ、蒸れきった靴を脱ぐ。
「はいはい、わかったわかった。今の仕事が落ち着いたら休み取れますからね。いい子で待っててよ」
絶対だからね!約束したからね!と言う声を背に、ボタンへ手をかけながら脱衣所へ向かう。もう二日もシャワーを浴びてない。可愛い人のお願いはさておき、今の自分を立て直さなければ日本が危うい。約束どころじゃなくなってしまう。
 大体仕込みが甘すぎる。プランというのは前もって立てて置くものだ。二ヶ月前進行じゃ遅すぎる。
 今年のプレゼントは、こっそり作った指輪と婚姻届と一年前に決めているのだから。

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 ああ、君があの安田くんでしたか。
 焼香臭いのが嫌なので、煙草でも吸おうかと思っていた時だった。喫煙所の入り口にポツンと立っていたその人は、一度携帯で見たことがあるような気もするが、全員が真っ黒い服なので結局よくわからなかった。
 ざあざあと空から雑に水が打ち付ける。空も泣いてるってか、やっすいドラマみたいだあ。こういう時って、本当に傘のせいもあって顔も黒塗りになっちゃうもんなんだなあ。
「初めまして、安田です」
名刺を取り出そうとポケットに手を突っ込むと、いや結構ですお気持ちだけでと制される。ああ、そうだよな。こんな時って名刺交換しないよな、普通。
「この度は、本当に」
口からスラスラ出る決まり文句。もう何回目だろうか。誰も彼も被害者なんだから、もう言わなくてもよくないか。
「あの娘はいつも貴方の話をする時、本当に楽しそうで」
遠くからは木魚の音が聴こえた。ざあざあと言い続ける雨が、目の前の人の台詞を打ち消し続ける。適当に相槌を打ちながら、僕は多分笑っていたと思う。
 なあ、なんでみんな過去形でしか話さないんだよ。

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「もう会社行っちゃうの?」
えー、おはようも言えないじゃんか〜と眉を下げながら、彼女はビールのプルタブを上げる。ぷしっ、という間抜けな音だけが玄関でやけに響いた。
「ゆっくり君と話せるようにするために、会社に行くんだよ」
なだめるように髪を梳かすと、赤くなった目尻と柔らかく細まり、口が尖っていく。
「わがまま言わないでよ、困っちゃうじゃん」
「わかったよう。おやすみ、安田くん。クリスマスの約束、忘れないでね」
「わかったわかった。いってくるよ」
ビール飲んで寝るねー、おやすみだよー。小さく振った左手が、黄色い残像となる。極力音を立てないようにして扉を閉じ、深夜の街へ僕は戻っていった。

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 残業後、一人ビルを施錠していると鈴の音が街を包み込んでいるようだった。急かされるように家路に急ぐ人たちも、数ヶ月前とは足取りが違う。世界は生きている。止まることなど、当たり前にない。
おもちゃ屋のショーウィンドーのに反射したオレンジのろうそくが、ゆらゆら揺れて僕を照らし返す。
「あーあ、煙草吸いてえ」
今日は君の好きだった第九がやけに流れるね。
 ジャーン。
 足元の缶を蹴り飛ばすと、10分以上の待ち時間ののち現れるシンバルの音とともに枯れかけた花束にぶつかった。

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「ねえ、安田くん」
「今度は何」
「今、うなされてた。どんな夢を見たの」
「よく覚えてないけど、君がいなくなってしまって、どうしたらいいかわからなかったみたい」
「えー、ひどい!何その夢(笑)」
「俺もよくわからないから許してよ」
「やだあ、ひどいのは安田くんでしょ」
「……ごめんなさい」
「もう、ビールとパピコ買ってくれたら許す!」
「またそれ?」
「えへへ」
「はいはい、わかりました。おとなしく買いますよ」
「でもね、安田くん」「夢だったらね」「いくらでも泣いていいんだよ」
「……何を言っているの?」
「煙草臭いのは嫌いだよ」「ちゃんとしてね」「私の話聞いてる?」「泣いてよ、全部夢なんだから」

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 気づいたら夜中だった。いつ点けたのか覚えのないラジオの横には、缶ビールが2つ並んでいて、ひとつは倒れていた。
『恋人はサンタクロース 背の高いサンタクロース』
ユーミンの声が鳴り止まない。ああ、残業なんかしないで有給申請をちゃんと出せばよかったのに。

 玄関に行くと、迷いなくシューズボックスを開け、オニツカタイガーの包装箱を取り出す。結局、意味のないものになっちゃったなあ。
 かじかんだ手をこすりながら箱に手をかけ、蓋を引き剥がす。どうせ中身はわかってる。ティファニーブルーの小さな箱、のはずだった。
 しかし、そこには見覚えのない紙が一緒に入っていた。
『見つけちゃってごめん!でもすごく嬉しい。一日一緒にいる権利の方もよろしくね』
変に縦長に伸びた癖字。なんだよ、そもそもプラン自体が破綻してたのか。乾いた笑いが口から溢れる。
「本当、バッカみたいだな」

 やっぱり空気がうまく吸えないみたいだ。もう一本だけ、煙草を吸いたい。
ベランダから見た下界に、君がいないだろうか。あーあ、でも吸っちゃったら、今夜はもう会えないんだろうなあ。
 火花とともに上がった紫煙は、魂の行方をなぞれるような気がして、イルミネーションよりも輝いていた。

※映画「シン・ゴジラ」の作中に登場する文部科学省研究振興局基礎研究振興課課長 安田龍彦(演:高橋一生)が、ゴジラの放射熱線で恋人を喪ったという仮説の設定で作られている短歌です。公式による明言はありません。


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