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辛辣かもしれない話と、あまり隠す気も無い本音。

「学校の勉強なんて役に立たない」という言葉の意味が、学生のころから全く理解できないまま育ってきた。要は、私は子どものころから途方もなく馬鹿だったのだ。

学校の勉強を役に立つか立たないかなどという二項対立の中に押し込んで語りだすのって、まあ中学生くらいから? だと思うんだけど。

初めて友人がそう言い募るのを耳にしたときの「こいつは何を言っているんだ」という、驚きというか、違和感というか。多分、自分とは全く違うものごとの見え方なんだな、と痛烈に実感して、友人をとても遠い存在に感じてしまった、初めての経験。

だって、まだ14,5年しか生きていないし、なんで役に立たないとわかるんだろう、なぜそう言い切れるんだろう、という疑問しか浮かばなかったので。
そしてそれは友人と先生とおしゃべりしていた時だったので、それを先生に対して訴えてどうするつもりなんだろうか、とも。

高校生になって、例えば英語がより多く、長く、難しいものも読んだり聞いたりできるようになって、初めて英語の本に挑戦してみたり。
授業で聞いた枕草子の話が面白くて、父親の本棚においてあった枕草子(注釈付き原文)を読んで(でもあまりにも読めなくて)半泣きになって読んでみたり。
中学生でちょろっと触れただけの炎色反応が高校の化学の授業できちんと出てきて、花火大会を見に行った同級生と盛り上がったり。

挙げればきりはないけれど、学校の勉強に限らず、何につけてもせっかく勉強したんだから役立ててみよう! という気になる性格のおかげか、「役に立たない!」と投げてしまいたい気持ちになったことは一度も無い。
もちろん、まだ役立てることができていない物事もたくさんあるし、多分この調子で行くと私の人生は私が学んだことすべてを使い切るには短すぎるから、学んだけど役に立てそびれたまま私が死ぬ、なんて物事の方が圧倒的に、絶望的に多いんだろうけれど。

だからと言って「学んで意味がない」という結論には到底たどり着きそうにはない。

もしかしたら、私が学んだことの中には、本当に「役に立たない」ものが混ざっているかもしれないけど、私はそれが「役に立たないもの」なのか「自分が役立てることができないもの」なのかを判別できるほど頭が良くないので、とりあえず手当たり次第に手に入るものは手に入れて、一個ずつ地道に使ってみるしかないんだろう。馬鹿には馬鹿のペースというものがある。

試す前から「これは役に立たないものだ」と見抜く力を持っていたその友人は、きっととてもとても、私なんか足下にも及ばぬほど頭がよく、賢かったに違いない。

それに、私が学んだことの中に、たくさんの「役に立たないもの」が(そんなものが本当に存在するならの話だが。不幸なことに、私はそれをまだ発見したことがない。今の自分の頭じゃ役立てられないものはたくさんあるけど)あるとして、でもそれって仕方がないじゃん、とも思う。

例えば、服を買いに行って、ユニクロに行くとものすごくたくさんの服がおいてあるけど、それを全部着るわけじゃない。うろうろして、あれこれ試着して、「お! これだ!」という一着を買って店を出る時に、その一着以外を見ていた時間が全く無駄だったかというと、そういう風にいちいち思う人って少ないんじゃないかと思う。(…もしかしてファッションセンスが質量を伴ってる存在みたいな人は、悔しかったりするのかな)

例えば、服を買いに行って、ユニクロに行くとものすごいたくさんの服がおいてあるけれど、その中に「絶対に誰にも似合わない服」ってあるのだろうか。なさそうな気がするんだけどな。その気になれば、大抵の服は着こなせるようになるんじゃないかと思ってしまう。もし私には無理でも、着こなせる人って絶対いるよな、とまでは少なくとも思うし。

だから私は今までに学んだことを、次々と忘れ去っては行くけど可能な限り後生大事に抱え込んで生きていくし、忘れるくせにまだ覚えようとし続けるだろうし、ユニクロでは一時間くらいかけて一着の服を探し出す生活をしていくと思う。

でも、それでもいいやと思ってる。
さっきも書いたけど、馬鹿には馬鹿なりのペースがあるのだ。
しかも残念ながら、あきらめも悪いし引き際の見極めも鈍い。もしかしたら「役に立たない」と他の人が早く判断できるかもしれないタイミングで、「いや、自分がそれを使いこなす能力を身につけられていないだけだ!」とかじりついてすがりつくかもしれない。

「学校の勉強なんて何の役にも立たないじゃん」と一昨日私に吐き捨てた隣のクラスの少年よ、先生馬鹿だから、一ミリたりとも君の言っていることが理解できないんだ。ごめんよ。


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