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「詩」の「問題」で「正解」しても詩を「読めた」ことにはならないかもしれない、という話。

こんばんは、しめじです。

今夜は、ちょっと「入試」に関するお話を。
共通テストに向けて、各出版社がいろいろと予想問題集を出版しています。

なにせ蓋を開けてみるまでどうなるかわからないものなので、さまざまなアプローチの問題が並んでいて、めくれどもめくれども同じような問題、ではないのは面白くはあるのですが。

どうしても気になることがあります。
尤も、これは出版社の出す問題集、についての問題ではなく、入試や、もっと言えば「学力試験」そのものの根本的な問題だと思うんですが。

「詩」を試験で出題するのって、どうなのさ。

これだけが、ずっと納得行かないんです。

大前提として、国語の試験は「読んで、解け」というものです。
つまり、読めば、そこに書かれている言葉を根拠にして、論理的整合性のある解答を導き出すことが誰にでも可能である、ということです。
(無論、論理的整合性がある、ということは完全に客観的であることですから、誰にでも可能であるということです)

「詩」に、論理的整合性のある解答を求めるって、おかしくないですか?

「詩」って主観的であることに価値があるのでは。

一般的に私たちが「詩」と認識しているもの(たとえば、谷川俊太郎の詩、とか、石垣りんの詩、とか)に限らず、俳句や短歌などの韻文全体に言えることとして。

詩は、根本的に主観的です。
整合性なんて、なくてもいい。

例えば、いくつか短歌を例に出してみますが。

穂村弘という歌人がいます。
現代短歌の歌人としてもっとも有名な方の一人だと思いますが。

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

という一首。
聞いたことある、見たことある人も多かろうと思います。

「世界中が夕焼け」という本でも言及されていますが、
「紫の<降りますランプ>」って無いんですよね。
だから、言うなればこれは「実現不可能な光景」であり、そういう意味において「論理的整合性」など本来望むべくもないわけです。

例えば、これは穂村弘の歌の中で一番好きなやつなんですが。

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

「世界中が夕焼け」ることもあり得ません。どこかが夕焼けであるとき、どこかでは日が沈んでいます。

たとえば、こういう「言語であれば表現可能であること」を表現する、というのも韻文が持つ強い特徴のひとつでしょう。
つまりは、詠み手の主観から聞き手、読み手の主観に、主観から主観に直接手渡しされるものが韻文であり、途中に客観性を挟む散文とは、韻文は性質を大きく異にしています。

なんなら、文法的に破壊されていても構わないのが韻文です。
村上龍の「歌うクジラ」など、一部の小説で「故意に文法体系を破壊する」という試みは行われていますが、これが試みとして成立するのは前提として散文は文法体系を破壊しないことで維持されるからです。
(だって、そうしないと人から人への情報伝達の手段としての機能が失われますからね)

と考えれば、「韻文」は本質的に「主観的」であり、「客観性」は著しく排除されたもの、詠み手の中に生じた印象をそのまま言語に置き換えたもの(これは、断じて「説明」ではない)であるわけです。

例えば、最果タヒさんの詩が結構好きなのですが、この方の詩はほぼ論理的には壊滅しているものがたくさんあります(褒め言葉です)。でも、だからこそそのまんま突き刺さってくるものがある。「説明不能」な感情の揺さぶりが起きる。それが韻文の持つ大きな効用の一つであることは、疑いないのではないでしょうか。

自分で作った詩を教室で発表する時間が地獄だった。

私がものすごく嫌いだった授業が、「詩」の授業でした。

自分で作った詩を、みんなの前で読まされるんです。
地獄です。嫌でした。やりたくなかった。

例えば、評論文の授業で書いた解答を教室にいる他の人に聞こえるように読むのと、自分で作った詩を教室にいる他の人に聞こえるように読むの、おなじ気持ちでできますか?
私には、まったく無理です。(だから、当然させません。基本的に、生徒の「個人性」が滲出する文章は、声に出して読ませません)

私はかれこれ5年ほど、俳句の同人会に参加していますが、そういった場で自分の作った句を披露できるのは、「それをそのまま受け止めようとする心構え」が相手にきちんと存在することが了解できているからです。
当然、私も他の方の句を読む時、聞く時は同じ心構えです。
そのまま、受け取る。
「これ、どういう情景を詠んだんですか?」なんて説明を求めるような無粋なことはしませんし、されたこともありません。

「純粋な主観」である「韻文」に「客観的」解答を求める不毛。

したがって、詩を読んで、「傍線部の表現の意図についての説明として最も適当なものを〜」などと聞くのは、根本的に誤っていると私は考えます。

主観から主観に受け渡されるはずの詩を、そういった客観性の舞台に引きずり出すということは、言うなれば詩を読むことの放棄です。
それで正解を選んで点数を取れることと、詩が読めることは全く別の物事です。

散文は、基本的には客観性を土台にしています。そうやって、人から人に「正確に」受け渡すためのものですから、だから語義が概ねの人の間で統一され、文法が概ねの人の間で統一されているわけです。だから、これに対して客観的な解答を求めるのは、合理的です。

でも、自分の主観そのものに言葉を当てはめて表現する韻文は、そもそも言語の役割が変更されています。それに対して、客観的な解答を求める意味は? と思ってしまいます。

さらに、そこで「点数」で序列を発生させるとか、言い方はきついですが愚の骨頂。
「詩」が「出題」されないことを祈るばかりです。

では、今夜はこの辺で。

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