令和いらねえ吊り輪ホットケーキ/2020年11月14日

京都での用事を昼すぎに終えて、京都駅まで急いで奈良線快速に乗った。これなら間に合いそうだ。

柴崎友香さんのツイートでぐうぜんに知った写真展を、入江泰吉記念奈良市写真美術館まで見にいくつもりだった。妹尾豊孝写真展。妹尾さんのことを前から知っていた、とかじゃない。美術館のホームページで見た数枚の写真に一瞬で魅了されてしまったから。

車中で、妹尾さんのバイオグラフィーを眺めた。1940年岡山市生まれ。少年時代を福岡県田川市で過ごし、高校卒業後、大阪の建設コンサルタント会社に就職する。大阪写真専門学校を卒業されたのが1984年とある。このとき44歳。

1993年に最初の写真集『大阪環状線 海まわり』をマリア書房から出版。妹尾さんの生活範囲である大阪の市井のひとびとをファインダーに収めたその作品集が、翌94年に第6回写真の会受賞、第44回日本写真協会新人賞受賞とある。妹尾さんは54歳になっていた。写真家の世界の常識をよく知るわけではないけど、普通に考えて相当に遅咲きな「新人」だろう。97年には続く写真集『5,000,000歩の京都』をおなじくマリア書房から出版した。

今回、奈良市写真美術館で開催されるのは、その2冊の大判プリントを展示したものだという。『大阪環状線 海まわり』も『5,000,000歩の京都』も、現在では大変入手困難で、結構な古書価格になっている(これも検索して知った)。

今年で80歳を迎えた妹尾さんはその後も写真業を続けている。「傘寿」を迎えてお元気、という節目ではあるかもしれないが、なぜいま90年代に出版された写真集の展示なのだろうと不思議に思わなくもない。写真が魅力的だという理由で奈良線に飛び乗ったのだから、こっちとしては先方の理由なんてある意味どうでもいいのだけど。

妹尾さんの写真は、大阪や京都のごくありふれた風景の「ありふれた」からこぼれ落ちそうな人々や景色を、絶妙に収める。写真だから静止画なのだが、感覚としてはいまでいうGIF。それもせいぜい0.5秒か1、2秒の動画みたいな錯覚がある。つまり、その1秒後の世界を想像させるものだ。なにも動いてないかもしれないし、子供は川に落っこちてるかもしれないし、だれかのため息や話しかける声が聞こえるかもしれない。

「ずっと」とか「これからも」とその先を願う表現は無数にあるけど、人の感覚としてのリアルは、そのわずかな時間に宿るような気がする。

モノクロで収められた風景や人の顔は、ともすると「戦後間もなく?」と勘違いさせてしまうような風合いなのだが、写真に添えられた日付を見ると、1980年代末とか90年代始め。せいぜい30年ほどしか経っていない近過去であることに驚く。

ぼくが修学旅行以外ではじめて大阪や京都をうろうろした時期と重なる。この写真のなかを自分が歩いていた可能性もあった、ということが記憶の時間軸を揺さぶる。

大阪にはじめて行ったのは、富田林に住んでいた親戚一家を訪ねたときだった。たしか18歳か19歳の夏。母の姉が旦那さん、娘さんと暮らしていた。一家は、たまに帰省でぼくの住む熊本を訪れることがあった。大阪育ちでおしゃべりで都会的なセンスをまとった読書家の従姉に、ぼくはかなり影響を受けた。物静かだがユーモアのわかる父、ボケとツッコミをわきまえた母娘の3人が揃った会話は、鳴りのいいトライアングルのようだった。

あの夜、従姉は夕方に仕事から帰ってきた。しばらく自分の部屋にいて、おめかしをして出てきた姿は別人のようだった。彼女になにか失礼なことを言い(気の利いたことを言ったつもりで)「良ちゃん、なに言うの!」と笑われた記憶がある。彼女は恋人とこれから港のほうへドライブに行くというので、時間を持て余していそうなぼくに「一緒に行かないか」と声をかけてくれた。

彼氏さんの運転する車に乗り、従姉は助手席、ぼくはバックシートへ。彼氏は大阪の有線放送関係の仕事をしていると紹介され、ぼくのことは「この子も音楽好きなんよ」と紹介された。「ふうん」と彼氏は答えて、なにかのカセットをかけた。それがなんだったのかは、どうしても思い出せない。くらい高速道路を車は走り、わりと3人とも無言だった気がする。

港に向かったのだから、最終的には埠頭にいたんだろうな。そこも記憶が曖昧だ。どこかのお店に入って、お酒でも飲んだんだっけ。いつも軽口を言う従姉はそこにはいなくて、恋人同士のドライブってこんなんかなと思った記憶だけがある。

それから何年かして、一家の柱であった旦那さんの退職を機に、一家は熊本に越してきた。熊本の地をとても気に入っていたことと、体調を崩していた従姉の療養が目的だったと聞いた。あの夜一緒にドライブした彼氏とはわけあってお別れしたという。だから、ぼくが富田林に行ったのは、その夏の一夜だけだ。

奈良から帰ってきてほどなく、その伯母が亡くなった。ちょうど妹尾さんの3番目の写真集『神戸 西へ東へ』(2001年、マリア出版)が家に届いた日だった。

やさしかった旦那さんは熊本に来てほどなく亡くなり、従姉もその数年後に亡くなった。あの日、ぼくが訪ねた一家が、みんないなくなってしまったことはとてもさびしい。それなのに思い出せることといったら、まるで断片的な瞬間ばかりだ。かなしい。

だが、『神戸 西へ東へ』をめくると、その悔恨がすこし救われるような気がした。写真集としては、震災から数年後、復興途上の神戸を生きる人たちの姿を収めたということが売りなのかもしれないが、妹尾さんのまなざしは最初の2冊とまるで変わっていない。相変わらず、この写真のなかのひとたちは、すこしだけ動いて見える。

シャッターを押すとき、撮影者は「動かないで」とお願いするものだけど、妹尾さんの写真では被写体は動いてるままだ。静止していても、息している。創作物に対して「日常の一瞬を切り取ったような」という比喩表現があるが、妹尾さんの写真は「切り取ってない」。そのひとたちがいた場所や時代、時間からひきはがして、別の場所で別の物語として成立させることをよしとしない。写真につけられた短文のようなタイトル、場所、日付にしっかりと人と風景が植わっているのだった。

ぼくらが、どうしても全体を鮮明に思い出すことができないと悔やむ記憶の本質も、きっとこういうものなんじゃないかと思える。そしてそれは断片だとしても、その短い記憶のなかで彼らは動いて生きている。もしかしたら、それは自分への救いを言い聞かせているだけかもしれないけど、別のきれいな物語としてひとり歩きさせるわけにはいかない大事なものがある。


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