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こどものくに/1×2

科学棟と教室とを繋ぐ渡り廊下をウサギが走って行くのが見えました。冬の乾いた白い光が、ウサギの黒い髪をきらきらさせるので、アリスの心臓はドキリと跳ねました。それは、予感が確信に変わった瞬間でした。これはもう、両手を上げてあーあとため息をつくより他にありません。アリスはウサギのことがどうしようもなく魅力的に見えるのでした。

学年の違うアリスがウサギと話すには放課後の体育館へ行かなければなりません。夏までは、アリスもそこへ行くべき人間でしたので、何の気兼ねもなくウサギと話し、一緒に駆け回ることが(触れたい時に触れることも)できました。でも、今は何をするにも理由が必要です。思慮深さとは縁遠い自覚のあるアリスも、流石に気後れするのでした。何より、常人からの大きなズレから目を背けることが難しかったのです。ズレのせいで、ウサギと疎遠になってしまう確率も、当然ながら高いだろうと思われました。

ウサギはアリスが悪戯を仕掛けると、感情を剥き出しにして反応しました。頬が真っ赤になるほど笑わせたことも、べそべそと泣かせたこともあります。アリスは、ウサギの笑った顔も泣いた顔もとにかく好きでした。兄弟のいないアリスには、ウサギがやっとできた弟のように思えて、可愛くて、可愛くて仕方なかったのです。
ウサギもまたアリスの感情を引っ張り出す名人でした。ウサギが年相応の男の子らしく格好つけようとすればするほど、アリスは腹がよじれるほど笑い転げました。ウサギはお腹を抑えて蹲るアリスを本気で心配し、アリスはそんなウサギを見てまた笑いました。ウサギが同級生の芋虫や、後輩のイカレ帽子屋、幼馴染のドードー鳥と楽しそうに話すのを見ると、胸の辺りがムカムカしました。そうして、しなくてもいい意地悪をウサギに仕掛けては泣かせていました。ウサギは他人の目があるところでは、唇を噛み締めて涙をこらえていましたが、アリスと2人きりになると「ひどいじゃないか」と恨み言を言いながらしゃくり上げました。アリスはそんなウサギを見ると、イライラが嘘のように消え去って、うんと優しくしてやりたくなるのでした。「オマエが可愛くってついさァ。やりすぎちゃった。ごめんな」と頭を撫でると、ウサギは目を真っ赤にしたままへにゃりと笑って、アリスを許してくれるのでした。アリスはウサギに我儘を許されることが好きでした。

アリスはちゃんとウサギのことを気に入っている自覚がありました。面白いヤツだし、かわいい後輩だし、弟みたいな彼なのです。でも、どうにも“好き”の種類が、普通の“好き”とは違うような気がしてきました。試しにアリスは自分を慰める時にウサギのことを想像してみました。昨日の夕方のことです。ボールを追いかけ、上がった息遣いや、しっとりと汗ばんだ肌、まあるく浮き出はじめたふくらはぎの筋肉などを思い出しているうちに、アリスはすんなり欲を吐き出してしまいました。なんてことだ!これは何かの間違いだ!アリスは瞠目しましたが、右手の中の粘つきが真実を物語っていました。

「放課後、練習行くわ」
「え、やった!あ…、そ、それはグレイトな提案ですね」

昼休みに購買前で声をかけると、ウサギはタレ目がちな目をまあるくして、手放しに嬉しい!という顔をして見せました。「訳失敗した英文みたいになってんぞ」と小突きながら、アリスは耳が熱くて仕方ありません。おそ松先輩、来るのか。うれしい。と買ったばかりの卵パンをにぎにぎしているウサギに余計な期待をしてしまいそうで、アリスはとっとと自分の教室に踵を帰しました。

キュッ、キュッとシューズを鳴らし、ダムダムとリズム良く跳ねるボールを追いかけていると、ドロリとした気持ちが汗と一緒に流れていくようでした。練習後顧問に引き留められて進路について長いお小言をもらっているときには、もともと容量の少ないアリスの頭は7割くらいウサギを忘れていました。だから、すっかり暗くなった体育館玄関の外に踏み出したときアリスは驚きと、歓喜とで目眩をおこしかけました。「一緒に帰ってもいいですか?」とウサギがたずねてきたのです。彼はアリスのお説教を1人待っていてくれたのでした。

「おごんねーぞ。金ないし」
「…ちがう」

とっさに茶化したアリスの前で、ウサギはうつむいています。伏せられた睫毛がきらりと光った気がして、アリスの胸がバクンと跳ねました。ウサギは、青いラインの入ったバスケットシューズを見つめたまま「大学。遠くに行くんですか?」と小さく言いました。アリスの胸はますますバクバクいいました。

あのさ。そんな顔されたらさ。違うって分かってても期待するだろ。
なあ、分かってンの?
俺がお前をどうしたいのか…。

「うん。そーなりそ。俺の成績でいける教育学部近くにナイってさ」
「…先生になる、んですか?」
「そーだよ。国語が一番得意だから、国語のセンセ」

抱きしめて、その濡れている唇に自分のそれをぶつけることもできたのに、アリスはそうはしませんでした。このときのアリスには、ウサギを追いかける勇気も、捕まえる自信もなかったのです。

翌年、長期休暇を利用して母校を訪ねると、ウサギには恋人ができていました。相手はアリスが2年生の時に赴任してきた、やたらと紫色の持ち物の多い保険医です。高齢のご婦人が好む色などと揶揄していたアリス達でしたが、どうやら彼はしっかりと大人の男であったのでした。頬を薔薇色に染めて内緒話をするウサギを、アリスは呆然と見つめました。他に、できることがありませんでした。あの時、ウサギのキラキラしたまなざしが見つめる先にいたのは、確かに自分だったと悔いたところで、もう「あの時」は戻ってこないのでした。

アリスのこどもの時間も終わりが近付いていました。もう来年には成人になるのです。でもアリスには、自分がおとなになるという実感がまるでないのでした。留まっていたいのに、時の流れが自分を取り残して先へ先へと行ってしまうようで、アリスは「遠くに行くんですか?」と漏らされたウサギの声ばかりを思い出していました。

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