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「意識」とは何なのか。

最近はどうも夏バテ気味で、実は、このブログを書くのもあまり気乗りがしません。

何が私を「意識」と呼ばれる現象の方へと執拗に駆り立てるのか、不思議に思う事が多くあります。

「科学」特に「数学の知識」は、私の職業の遂行に無くてはならない知識すし、「意識」に関する知識が役立つことは稀に思います。

まあ通常は、殆ど役立たないと言っても過言ではありません。

実は最近また、例のくまざわ書店(京都ポルタ店)で、新たな本に出合いました。

その本の題名は、岩波新書の「空海(松長有慶著)」です。

私の「覚醒」への卒業試験を担当してくれた、「アセンデッドマスター」が本の題名です。

まあ、ご本人から「言葉」で聞かされた訳ではありません。。。

そのコミュニケーションの取り方は独特で、天空の象徴現象(例えば、「二重の虹」や「月齢」)との「意味共鳴」を通して、知らせが届くのです。

そして、これらを「感知」できたことで、「覚醒」の免許皆伝に繋がった様なのです。

まあ、同じことを何度も何度も書いていますので、食傷気味の方も多いとは思いますが、基本、体験したこと以外に書くことはありませんので、仕方がありません。

全てが「偶然」の出来事でありながらも、「意識の境地」によっては「必然」なのです。

これを多くの人々は、「心の機能」と言いますが、「比較」や「社会的な立場」から来る「感情」も含まれており、玉石混交の状態です。

よって、「心」のカテゴライズを変更して、「関係の意識」と「場の意識」の二つの境地の「心」に分類し直すことで、新たな価値が生まれるのです。

これらは、一人の人間の「関係の意識」と「場の意識」の「二つの意識の立場」を通して、並列共存し、機能しています。

こう書くと、「統合失調症」を連想して、恐れをなす方がいますが、そんな病的な症状(勝手に命令の声が聞こえたりとか)は一切なく、あくまでも主体は、自分なのです。

だからこそ、仏教の伝統では、「ほんとうのわたし」と表現したりします。

その住み分けは明確で、片や「普段の人間の精神活動」を、片や「非常時の霊的精神性を伴った精神活動」として、意識しながらの活用が可能となるのです。

そして、一旦この非常時の状況から脱すると、継続したアクセスが可能となり、それは、この現象への正しい理解から、「覚醒の免許皆伝」へと移行するのです。

「禅」や「密教」などの宗教的教義に沿った道もあるのかも知れませんが、私の場合は、その道を辿らなかったのです。

ですが、「偶然」の導きにより、ここ京都にて、「学びの場」とのご縁を頂きました。

「運がいい」と言われれば、そうなのかも知れません。

過去の時代においては全てが「無意識」で、一部の覚者を除いて、個人として活用されることは稀でしたが、「国難の時代(鎌倉時代末期)」には、それらが「習合」して、顕現された様です。

おそらくは、多くの「衆生の心」が、今よりも純粋だったのだろうと思います。

さて、とても良い本なので、話しを「空海」の本に戻したい所ですが、「どうも夏バテ気味」がとれず、次回にします。

と言いたいところですが、つい昨日、とても書きたい「アクトゥリアン評議会」のチャネリングメッセージとの「意味共鳴」がありましたので、次回はその話題とし、次の次になるかも知れません。

すみませんが、今日はこの辺で。。。

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