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「場の意識」の体験について6

以下は、秋月龍珉氏著「禅仏教とは何か」からの引用です。あえてページは書きません。それではひとつひとつ、「情報補完」を試みようと思います。

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『直接に「自性」(自己の本性=仏性)を自覚体認すると、「自性」はそのまま「無性」であって、その境地はもはや成語(たわむれの議論)を離れている。』

これは、「自性」すなわち「自己の本性」とは、「関係の意識」による、「生存のために戦う自己」とは違うと言っています。これは、肉体を帯びて活動するための、かりそめの自己だと語っている様です。
すなわち、「ほんとうのわたし(場の意識)」に目覚めること、則ち「悟りに在る」とは、「無意識の本性」であり、その境地にあっては、他者と議論を戦わせる必要性は、全くないと語っています。


『釈尊は「生死輪廻」からの「解脱」の境を求めて、それを「涅槃」、すなわち”生死の消滅”と言われた。そして、そうした「涅槃」を求めて修行するうちに、思いがけなく「菩提」を証された。すなわち「悟り」を開かれたのである。これを「直証菩提」という。
そこで「菩提」を証されてからは、「涅槃」は「菩提」の同義語となった。』

ここで言う”生死の消滅”とは、「肉体的な死」を意味しません。それは、どちらかと言うと、真言密教の「即身成仏」に近い概念で、「輪廻のサイクル」から卒業した、「場の意識」を指すもので、「関係の意識」、つまりは肉体を保持したままでも体現可能と考えるのです。『釈尊は、思いがけなく「菩提」を証された。』とありますが、「直証菩提」とある様に、思いがけなく「悟り」を開かれて、「生老病死の恐怖」から解放されて、これを直接に証明されたと考えます。


『ここで白隠禅師は、その「直証菩提」のことを、より具体的に「直に自性を証する」という。
釈尊は何を悟ったのか。「自性」を証したのである。”真実の自己の自覚”である。そして、それは「自性即ち無性」と自覚したのだと白隠は言う。この自覚は「禅定」からのみ体得される。だから「禅定」が大切なのである。』

ここで言う”真実の自己の自覚”とは、「場の意識」の実在の自覚の事だと、私は考えます。そしてそれは、「自性即ち無性」つまり、「場の意識」が持つ、高次元へと繋がった「無意識の意識」の実在の事です。


『そこで、「自ら回向(実践)」して「直に自性を証」すれば、「自性即ち無性」であって、そこはもう「戯論を離れ」た「直証菩提」の体験境だ、「自ら回向」して体験するよりほかないというのである。』

これが、「場の意識」と呼ばれる「無意識の意識の自覚」であり、「有る無い」と言った、他者との戯言の議論を越えた、体験の境地であり、自ら振り返って、出来事の意味を体感するより方法がないと語っています。


『ここから、白隠のいう「大乗の禅定」ということの内実が、はっきり分かる。それはけっしていわゆる精神修養でも、人格完成の道徳的実践でも、いや自我の救いのための修行でさえもない。それは「自性即無性」と直証する「無我」体現の「行」である。それはいわば、「自我」を「空」じて「無我」を実現することによって、「本来の自己」(「心性本清浄」の自己)を自覚体認するための「行」である。』

これらは、精神修養でも、人格完成の道徳的実践でも、いや自我の救いのための修行でさえも決してないのです。つまりこれは、「関係の意識」の修行ではないのです。
それは、「場の意識」と呼ばれる「無意識の意識の自覚」の「行」なのです。
つまり、「高次のわたし」と呼ばれる「人類の無意識層」との繋がりの自覚を取り戻す、「行」なのです。


『「禅定」とは「無我」(自我の「空」)実現の「行」である。”自己の実現”のことを、初期仏教では「法が露わになる」と言った。では、「法」はいつ露わになるかというと、それは自我が「空」じられて「無我」になったときである。それを「禅定」というのである。』

「禅定」とは、空間構造としての「無意識の自己の実現」の「行」である。
そして、こう言った”自己の実現”のことを、初期仏教では「法が露わになる」と言った。
では、「法」はいつ露わになるかというと、あまりの孤高な自我への圧迫で、我が「空」じられて、「世界とわたしが一体化」したときである。それを「禅定」というのである。
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次回に続きます。

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