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二度目のインパクト3

本日は、冬らしい一日となりましたが、皆さま如何お過ごしでしょうか。
以下が、前回お約束した、当時の私のブログ『「匿名」にしてください。』の全文です。あまり人様に公表するような整った文章ではないのですが、その時の慌て具合が伝わって来て、今読み返すと赤面ものです。ではなぜわざわざ引用するのかと言いますと、今では薄れてしまった、「感情の起伏(常識とのギャップへの驚き)」が、文章の中に現れているからです。
以下は、全文です。

【「井筒俊彦、言語の根源と哲学の発生」を読み進めば読み進むほど、私にとって、驚愕の内容が書かれています。これを文字で表現するのは大変難しく、一言では書けない内容を含んでいます。例えるとするならば、「妄想性私小説」として、片付くような内容です。現象を仮に言語化しようとすると、「二重写しの空間」として、表現するしかありません。それほど、常識離れしたことが、書かれています。これが「主義」や「思想」の次元なら、言葉を尽くせば、受け入れられるでしょう。ですが、「現実の事象」としては、受け入れ困難と、言わざるを得ません。書こうか書くまいか迷ったのですが、匿名性のある(保証はないのですが)ネット空間ですので、包み隠さず、書いてみようと思います。
さてさて、今まで書いてきたことも、「妄想性私小説」だと思われている方が、殆どだろうと思います。ですがまあ、「可愛げのある妄想」ぐらいに、許される内容だとは、思います。ですが、ここに書かれていた内容は、これに更に拍車をかける様な内容なのです。恐らく、「!!!思い上がるな!!!」との罵声が、聞こえて来ると思われます。やはり躊躇もあって、前置きが長くなってしまいます。

その「コトバ」というのが「脱自」と「神充」という言葉です。「脱自」というのは、人間を無化する働きだそうで、「神充」とは、読んで字のごとく、その場を瞬時に埋めつくす超越の働きだそうです。これが私の「自身の暗黒面との対峙」の体験と、オーバーラップするのです。以下に、「井筒俊彦、言語の根源と哲学の発生」に書かれていた、井筒俊彦氏の著作である『神秘哲学』からの引用文を、更に引用してみます。ウーム、ダブル引用です。

『神秘主義的体験においては、自我の無化、意識の隠滅ということは、単に今までそこにあった、物が消えてしまうという準消極的活動なのではなく、実はその裏面に、凛冽たる積極性を、含んでいるのである。けだし神秘主義にかぎらず、一般に精神的生命の溌刺たる活動のあるところ、常に小なる者の死は、大なる者の生を意味する。かくてここでも、感性的生命原理としての、相対的自我の死滅は、ただちに超感性的生命原理としての、絶対我の霊性開顕の機縁となるのである。人間の相対意識が、自他内外一切の差別を、離却してりごうも余す所なく、絶滅し尽くされた、人間無化の極処において、その登浄絶塵の霊的虚空にこうとうとして、絶対意識が現れる』

難しい旧漢字で、意味不明な単語もあるのですが、概ね理解できる範囲で、酷似しているのです。自分に対する死の宣言や、積極的消極性の部分、果ては、明晰夢による地母神の顕現の体験までが、オーバーラップしているのです。確かにこの時期、河合隼雄氏の著作に没頭しており、無意識の影響もあったとは思います。ですが、そこがゲートとなって、この様な体験を誘発した様にも思えます。この時期、心霊的体験も頻発しており、かなり追い込まれた状況にあったのも事実です。まだまだこのテキストからは、何かが飛び出して来そうです。】


この「概ね理解できる範囲で、酷似している」というのが、私の「神秘体験」とも表現している、「自身の暗黒面との対峙」の体験です。自分の中に蠢いているエゴ。私はこれを他者の中に、「上司からの嫌がらせ」として体験していたのです。すべて「自分の中」にもあるものなのです。立場が変われば、私が演じていたであろう役割なのです。こういった「他者との関係」にうんざりしていた私は、そのゲームを放棄したのです。そしてこの体験が「脱自」と重なるのです。さらに訪れた「神充」の体験。この体験こそが、以前にここでも書いた「人生の反転の体験」とも見事に符合した瞬間だったのです。
そう、私が過去に体験していたのは、「禅」だったのです。
次回は、「井筒俊彦、言語の根源と哲学の発生」の内容から、仏教学者の未木文美士氏の寄稿による、「禅から井筒哲学を考える」の章です。これも、当時書いた内容を、もっと分かりやすく文章化してゆきます。

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