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意味分節理論と空海(その十二)

先日の夏至の日に、近くの西芳寺川に家族で釣りに行ったのですが、何とも不思議な感覚を味わいました。そこは、近隣では有名な清流で、小さな子供が居る家族連れから始まり、学生から老人までが楽しめるスポット的な場所です。ですが外向きにはあまりオープンではなく、秘された雰囲気があります。家族連れが多い場所から、さらに上流へと向かって辿っていくと、本流から少し外れたあたりに、5世紀ごろの古墳群があります。桂、嵐山、嵯峨、太秦一帯は、秦氏が初期に入植した場所にあたり、看板には記載がありませんが、秦一族の王家の谷ではないかと推測されます。まあ、この桂一帯は、昔から、平地も古墳で一杯だった(今は宅地化され、見る影もありませんが)様ですが、比較的初期の頃かも知れません。「フェブライルーツ」とも言われる秦氏一族は、この地に入植して、酒造、灌漑、養蚕、芸能などの技術力を生かして、この土地の先住民とも同化して行った様です。近くにある「松尾大社」も、秦氏が奉ずる「宗像三女神」の一柱である、「市来島姫の命」を祭っていますが、元来は、縄文の時代から続く、「岩蔵信仰」が、メインの場所だった様です。そう、秦氏が持ち込んだ「酒造」の神様でもありますね。
前置きが長くなりましたが、その「不思議な感覚」と言うのが、この清流のあちらこちらから今も発せられる「神聖なる空気感」です。この場所に多くの「老若男女」が集うのも、この空気感に由来するようです。砂防ダムも整備され、多くの人の手が入っていますが、周辺の「岩場」や「深い森」「水の流れ」、から発せられる「神聖なる雰囲気」は、今も健在です。まあ、いずれにせよ、なんで私は、偶然にしてもこの場所(秦氏の聖地)に、誘われたのですかねえ。。。そう、「関係の意識」を信頼すれば、「単なる偶然」ですが、「場の意識」を信頼すれば、「背後にある必然」を感じさせるのです。

それでは引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。


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『以上、かなり長々しく、イスラーム的文字神秘主義の言語哲学について、私は語った。
それが真言密教の言語哲学に、強力な側面からの光を当てることになるのではないかと考えてのことである。ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義と空海の真言密教。細部的には、勿論、数々の著しい相違点がある。しかし東洋哲学全体という広い見地に立って見るとき、両者がともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属し、そのパターンを二つの相互にまったく異なる宗教文化的枠組みのなかに具現していることを、我々は知る。
そして、この点では、ユダヤ教のカッバーラーもまた同様である。』

「ガイアの法則」のシュメールの神官も同様の内容を述べていました。つまり、地球には、その土地土地で「意味エネルギー」の発露があり、そこに住む人間は、その直接的影響下にあるのです。さらに「東回りの文明」と「西周りの文明」は、それぞれが「場の意識」と「関係の意識」の「意味エネルギー」を表現します。そういった意味で、「東洋哲学全体という広い見地に立って見るとき、両者がともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属し、そのパターンを二つの相互にまったく異なる宗教文化的枠組みのなかに具現している」のです。


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『ファズル・ッ・ラーの場合とは違って、カッバーリストたちは、神はそのままコトバであるとは言わない。彼らにとって、神は絶対的超越者なのであって、それがコトバであるか、何であるか、などということは人間の知り得るところではない。ただ、神の無底の深みに創造の思いが起こる、すると、この最も内密な、ひそやかな創造への意志が、その場でたちまちコトバになるのだ、という。
神の無底の深みから湧き出てくるこのコトバは、声ではあるが音はない。この無音の声は、もう一段展開すると、響となって神の外に発出する。だが、この響は、この段階では、まだまったく無分節である。だが、次に、この根源的な無分節の響きは、自己分節して二十二個のヘブライ文字となり、さらに進んでこれらのアルファベットは互いに様々に組み合わされて物象化し、そこからいわば下に向かって層一層と感覚性の濃度を増しながら様々に凝結し、かくて次第に全被造界を形成していく。上は至高天使から下は物質界に至る存在世界現出のこのプロセスは、終始一貫して神の創造的コトバの自己顕現のプロセスにはかならない。要するに、ありとあらゆるものが、ヘブライ語アルファベット二十二文字の所産なのであって、存在世界は本源的にコトバ的性格をもつものとして構想される。神自身がコトバであるか否かは別問題。とにかく存在世界に関するかぎり、すべては神のコトバそのものなのである。神がコトバを語るから、世界が存在する。神がコトバを語り続けるから、世界が存在し続ける、という。ここでもまた、真言密教に著しく接近した言語・存在論に、人は出合う。』

先に紹介した、アラビア文字もそうですが、それぞれの土地に「言語文化」が花開きます。これらは、大地が発する「意味エネルギー」の発露であり、どこの場所にも例外はないのです。「日本語の精神」は、これら世界中の言語文化を統合し、「高い文化性」を保持したまま、これを表現可能にする能力があると考えます。現在は、「高い欧米文化」の「意味エネルギー」を吸収しながら、新たな「場の意識」の「意味エネルギー」へと変換すべく、端境期にあると考えています。そしてこれが、「場の意識」が創り出す、「場の方向性の意味エネルギー」であると考えます。その方向性とは、「欧米文化」では決して創り出せない「高次元の方向」を、日常の生活の中に見出す試みでもあるのです。


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『この時点で真言密教に立ち返り、前に簡単に触れておいた「法身説法」の意味するところを、あらためて言語哲学的に考察してみよう。「法身説法」----法身大日如来が説法する、コトバを語る、ということ。それは、一体、何を意味するのか。
イスラームの文字神秘主義やユダヤ教のカッパーラー神秘主義にも、構造的にこれとまったく同じ型の思想があることを、我々は見てきた。そこでは、根源的コトバは神のコトバであり、特にイスラームの文字神秘主義では、神はコトバだった。神のかわりに、真言密教は法身を立てる。法身、すなわち存在性の絶対的、究極的原点がコトバである、とそれは説く。
永遠に、不断に、大日如来はコトバを語る、そのコトバは真言。真言は全宇宙を舞台として繰りひろげられる壮大な根源語のドラマ。そして、それがそのまま存在世界現出のドラマでもある。真言の哲学的世界像がそこに成立する。』

「イスラームの文字神秘主義」は、「欧米文化」の中では、無視されてきた神秘の営みです。それは、長い闘争の歴史の中で培われた、「意識の偏り」でもあります。欧米的合理精神は、その文化的表現の中に、相反する方向性を内包します。これが、対立をばねに培われた、「関係の文化」たる所以です。常に相対的に相手を批判しあいながら、高められたのが、「欧米文化」でもあります。よって、その表現の次元の高さゆえに、その闇も、深いものになるのです。「場の文化」たる「日本語の文化」は、「欧米の知性」と「イスラームの知恵」の両方を獲得し表現できる、稀有な立場にあります。まさに「真言の意味エネルギー」は、「全宇宙を舞台として繰りひろげられる壮大な根源語のドラマ」である訳です。


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『大日如来の「説法」として形象化されるこの宇宙的根源語の作動には、原因もなく理由もない。いつどこで始まるということもなく、いつどこで終るということもない。金剛界マンダラが典型的な形で視覚化しているように、終ると見れば、すぐそのまま、新しい始まりとなる永遠の円環運動だ。しかし、この永遠の円環運動には、それが発出する原点が、構造的に----時間的にではなく----ある。それが阿字(ア音)。すなわち、梵語アルファベットの第一字音である阿字が、大日如来のコトバの、無時間的原点をなす。
阿字が梵語アルファベットの第一文字であるということが、それ自体で既に絶対的始源性の象徴的表示ではあるが、そればかりでなく、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われているように、ア音はすべての発声の始め、すべてのコトバの開始点、一切のコトバ的現象に内在する声の本体である。』

まさにまさに、「宇宙的意味エネルギー」の作動には、原因もなく、理由もなく、時節を繰り返す円環運動です。この無時間的な円環運動は、量子のスピンを彷彿とさせます。「金剛界マンダラ」が典型的な形で視覚化している、永遠のドラマでもあります。ですがそこには、永遠なる進化を生み出す「胎蔵界マンダラ」も寄り添います。そして、「この永遠の円環運動には、それが発出する原点が、構造的に----時間的にではなく----ある。」のであり、「それが阿字(ア音)。」、まさに、「エクスタシーの声」である「ア音」なのですね。。。。


だいぶ終盤ですが、次回も「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

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