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優しさの再考

朝飯の後洗い物をしながら、

「優しさってさ、何?」

と思った。今日一日グダグダ考えたから、書いてみようと思う。
結論から言うと、2種類の「優しさ」を発見した。世間一般で言う優しさと、ご先祖様が考えた優しさ。

まず考えたのは、世間一般で言う優しさについて。
「あの人ほんとやさしいよね~」っていう時の優しさ。現代を生き抜く僕にとっては、こっちのほうが考えやすい。例えば、

隣の席の子が筆箱を忘れた。鉛筆を貸してあげる。
友達が引っ越すらしい。片付けを手伝ってあげる。
来週は友人の誕生日。誕生日パーチーを開いてあげる。

どうだろう。こんな人を見かけたら、「優しい人ですね」なんて言ってしまいそうではないか。

でもその本質は、自分のためだと思う。

困ってる人をほっとけないのは、困ってる人を助けた後の「ありがとう」が欲しいから。誰かのために時間と労力を使いたいと思うのも、その後感謝されたら、結果自分が嬉しいから。

嫌いな人、仲悪い人を思い浮かべてほしい。もしくはめちゃくちゃ不機嫌そうにぶすっとしている人でもいい。彼らには、上の例のような優しさを見せる気にはならないと思うんだ。それは「ありがとうの報酬」が期待できないから。

この浅はかな考察から、僕は世間一般で言う「優しさ」は、ありがとうの報酬を得て、自分がいい気持ちになるための、自己満足を前提としたものではないかと思った。よほどひねくれてない限り、人は何かしてもらったら嬉しくて感謝の意を表するから、自分が「ありがとうの報酬」を求めて優しくなっているとは気付かないと思う。


さて、次にご先祖様が考えた優しさ。

なぜご先祖様を出してきたかというと、漢字の成り立ちを考えたから。これはなかなか不思議だ。「優」の字を分解すると、

人が憂う
人を憂えさせる

になる。どっちが正しいかは分からんが。憂うというのは、漢字のイメージ通り、心配したり思い悩んだりすることだ。優しさのどこに思い悩む要素があるのかまったく分からんが、これを強引に押し切って解釈してみた。

「真の優しさっていうのはね、人を憂えさせるんだよ」

ほう、つまり、

「人の痛いところ突いて、相手を考えさせる。悩ませる

とでも言いたいのだろうか。これがご先祖様が考えた優しさなんだろうか。

・・・ちょっと分かる気がする。

いい例が書けないのが残念でならないが、誰しも思い当たる節はあるのではないか。自分の間違いを教えてくれた人、何かに執着する自分をそれから引っぺがそうとしてくれた人などだ。当時はあれこれ言われて悩んでへこんだけれど、今となってみれば有難かった、なんて思い出があるのではないか。

この定義で「優しく」なるには、覚悟がいる。相手の痛いところを突くと、その人との関係が修復不可能になる可能性があるからだ。そのリスクをとってまでも、誰かを考えさせる。悩ませる。見つめ直させる。そしてこの時、「ありがとうの報酬」なんて全く期待できない。その意味では、まさしく「他人のための行動」のように思える。(なぜ断定形を使わないかというと、「いや、そんなん自分の意見を押し付けてるだけやんけ!」と言われると、そんな気もするからだ。)


となると、後者の意味で僕が優しくなったことはない。いや、家族にはあるんか?少なくとも家族外では、そうなったことはない気がする。世間一般の優しさのぬるま湯に浸かってきたし、嫌われるリスクは怖いし、そもそも誰かの言動をひっぱたくのに必要な考察力がない。

でも、後者の「優しさ」を見せてくれた人たちのほうが、明らか自分の記憶に深く刻まれているわけで。

二刀流の「優しさ」を持った人間、いいかもな。


(以前書いた、漢字成り立ちシリーズも貼っておきます)

https://note.com/mr_ikujinashi/n/nfd8b48b7cf33