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集まって離れる、それが人生でしょ

東京で働いている、中国人の友達から電話がかかってきた。

「私ね、実は仕事辞めたの。中国に帰る。」

苦悩と決意を漂わせていたラインの文面とは裏腹に、彼女の声は普段以上に明るく感じられた。


その人とは大学で知り合い、仲良くなった。あっけらかんとした性格と、日本語がバリバリに話せたことから、日本語のジョークが通じ、かつ返しもできる唯一の留学生だった気がする。(彼女自身はいつも自分の日本語能力に不安を感じているようだったが、僕にリアル日常会話レベルの日本語を喋らせる留学生は他にいなかった。)

彼女が大学にいた2年間は、よく会っていた。それから大学を卒業し、彼女が東京で働くこと2年。ちょくちょく連絡はしていたけれど、直接会ったのは東京での1回きりだろうか。

名古屋と東京という、容易には会うことができない距離関係で、この2年が過ぎた。というか、僕が東京近辺に訪れても、存在を思い出していなかったことすらある。だから正直、彼女が今回中国に帰ってしまっても、その距離関係において、物理的に大した変化はないように思える。

しかし、中国に「帰る」という言葉は、その距離関係をずっとずっと引き延ばした、とても測ることのできそうにない距離感覚へと変化させる。そしてそれは、学校の卒業式で誰もが感じる、あの寂寥感・喪失感に似た感情を生む。


電話口では、いつも通りのあっけらかんとしたテンションで、仕事で経験したこと、同僚・先輩のこと、自分の強さ・弱点、辞めるに至った経緯、これからのことなどを、絶え間なく話してくれた。将来への不安はひしひしと伝わってくるのに、なぜか聞いてる僕が元気づけられてしまうような口調で話せるのは本当にすごいと思うし、日本に対する不満を辞める理由として並べない謙虚さにも、尊敬を感じずにはいられなかった。

そして唐突に、
「日本での4年間はあっという間だったね、今までありがとう。あなたにはぜひお礼を言っておこうと思った」
とさらっと言いのける。すると、胸に手を運ぶと必ず行き当たるあの場所で、言い表しがたい重さが積み重なるのを感じる。

そんな僕の思いを見透かしているのか、はたまた彼女自身への助言なのか、

「集まって離れる、それが人生でしょ」

と彼女は言う。


人が人生を語る時、それは個として独立したものに目を向けることが多い。
でも、人生を時の流れの中で集合的にとらえると、それは絶えず集まり、絶えず離れ続ける、そんな生き物に見えるらしい。


1つの人生が、僕の人生から離れようとしている冬の夜空を見上げ、僕は少しあたたかさを感じた。