柴田さんだから柴犬だと思った

久しぶりに手のひらの上で言葉が跳ねる感覚があった。
立て続けに申し込み、心身をむしばみに蝕んだ資格試験ラッシュの終わった日曜の午後である。

Amazonのブラックフライデーに乗じて小さめのせいろを買った。肝心のせいろの下の鍋は買い忘れたので、当面の間サイズがほぼぴったりのミルクパンで代用する。鍋から滑り落ちてしまわないことを祈るのみである。下の鍋の名は。

せいろを買ったことに合わせて、野菜を買いに出た。
キャベツ1玉と大根1本、ニンジンと、一人暮らし少食傾向のある乙女のひとり暮らしにはいささか多めだが、ゾウからみれば一食分にも満たない程度である。長らく重いものを持っていなかったので上腕二頭筋を強化するよい機会となった。

会計は柴田さんが担当してくれた。Googleのあたらしい折り畳みスマホさながら、丁寧に30°折れ曲がったお辞儀で出迎えていただき、重量物たちの代価と取引結果を登録いただいた。
支払いのタイミングで、クレジットカード控用のあの青いシートを抑えるのにガチャポンに入っていそうなくらいの大きさの柴犬か鎮座ましましていることに気が付いた。もう少し厳密に言えば、鎮座というより、伏せの状態である。舌も出ていた、冬だもんな。
それなりの大きさのあるスーパーなので、なにもわざわざレシート置きに柴犬を導入する必要はない。むしろよくある磁石付きの銀色のクリップでもいいはずである。

しかし、そこであえての柴犬である。伏せをした、舌の出た。
「あ、これは柴田さんのひっそりジョークなのだ」と気づいた瞬間に、マスクの下で他人からはわからない範囲で盛大ににやけておいた。マスクが当たり前の時代でよかったと思う瞬間の一つである。
もはやここはひとつ、柴田さんにツッコミを入れるべきとも思った。柴田さんゆえの柴犬ですか、いやもっとシンプルに「柴犬、ですね」程度でもよいかと思った。

ツッコミの内容を逡巡させているうちに柴田さんからの「ありがとうございました」が終了のゴングとなった。結局、形式的なやりとり以外一切の会話をしないまま、サッカー台で重量級の野菜たちを袋詰めしていった。
こんな時世の折、数少ない他者との小さな会話をし損ねた寂しさと、柴田さんで柴犬かという奇抜な喜びをかみしめた。

レジのレーンとサッカー台の間の通路を抜けて出口へと向かった。寒暖差とビル風が相まって、初冬の冷えた風が出口から私に強く向かってくる。進路に目を向けられず、レジ方向に顔をそらした。そこにはお座りの姿勢と伏せの姿勢で思い思いの紙類を抑えている柴犬たちが仕事をしていた。

あー言わなくてよかった。

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