第164回芥川賞候補作「小隊」という小説への私的で出鱈目な読み方

第164回芥川賞候補作の「小隊」の面白さは「これが初めての戦争である」というところにもあるのですが、より正確に表現するのならば「これが誰にとっても初めての戦争である」「にも関わらず戦争が成立していく」というところから始まります。誰にとっても、というのは自衛隊の上官のみならず、ロシア軍も含めて、という事です。

我々は戦争と日常を別個の世界のものだと思っています。それを踏まえると戦争というものはこの登場人物の誰にとっても、全く経験したことのない世界のはず。そうであるのならば、全員戦争をした事がないのに、戦争というものが成立するのはとても奇妙な事です。

この奇妙さが、この小説を読む上で一つの鍵になるのではないかと思います。そしてこの謎への答えはシンプルで、戦争がなぜか成立してしまうのは語り手たちが戦争を自分たちの身体で作り出しているからなのです。

よりピンとくるために、あり得たかもしれない別の小説を考えてみます。一つは戦争を描くという上で、「経験者が描かれている」小説のことを考えてみましょう。自分の知っている限り多くの戦争小説では、百戦錬磨の戦争経験者のような人物が描かれている事が多いです。例え、語り手にとって従軍経験が初めてのものだとしても、その初めてさは「百戦錬磨の戦争経験者」と「初めての従軍経験である語り手」の対比として浮かび上がることになります。

一方でこの小隊という小説においては、全ての登場人物が戦争をまさに初めて経験する、全員が全員、いわば戦争童貞として描き出されています。ですから通常、登場人物の対比を経て描かれることになるその「初めての戦争」としての性格、戦争童貞性は、また別の形で表現されることになるのです。

この小隊が「登場人物の対比によって戦争童貞性を描くことはしない」という決断をした小説であること。これは第一のポイントです。しかしここで止まることなく、この小説の奇妙さは、更にもう一つのポイントによって増強されることになります。

それが「戦場の混乱によって戦争童貞性を描くことをしない」という決断です。やや語弊があるかもしれません。実際のところこの小説において、戦争はある程度混乱したものとして描かれているのも事実です。しかし、その一方で、この小説の中での戦争が極めて滞りなく(戦況が芳しいという意味ではなく「戦争が戦争として成立しているという点において)遂行されていくことも、また事実ではないでしょうか。

習性とは立派なものだ。吐いている間も、小銃に吐しゃ物がかからぬよう右手でこれを身体に保持していた。左手の袖口から、自身の生暖かい体液が染み込んでくるのが分かった。肩口で口元を拭おうとしたものの、防弾チョッキが邪魔でかなわず、結局左手で拭った。泥がついた。「大丈夫か」問いかけつつ、自分は大丈夫じゃない、と思った。自分を支えるのは不撓不屈の精神でも高邁な使命感でも崇高な愛国心でもなく、ただ一個の義務だけだった。3等陸尉という階級に付随する、無数の手続きが、総じて一つの義務となり、自分を支えている。足立は、もう勘弁してくれ、と強く思っていたが、身体は常に義務に忠実で、今も指揮下部隊を掌握し、適時適切な状況把握に努めようとしていた。

ここで奇妙なことは、語り手の精神は大混乱でありながら、その行動だけを見てみると、小銃を右手で保持し続け、他の隊員に「大丈夫か」と問いかけるのです。つまり自衛官としての語り手の身体は常に適切に戦争を遂行していきます。

よりその事が明らかになるのは、小熊さんという年配の退院の描かれ方に着目した時です。

「小熊さん、これから小隊の確認に行きますんで、立松といてください。何かあったらお願いします」この人は、本当はすでにどこかで戦闘を経験しているのではないだろうか、と安達は思った。全然動転しているような様子が見られなかったのだ。

語り手から見た他の隊員は、時に冷静に描かれます。そしてこの小熊さんがラストシーンで非常に示唆的な行動を取ることになります。

この小説の中で幾度も強調される事が、主人公の身体が主人公の内心と分離している様です。主人公は戦争を知らないはずなのに、主人公の身体があたかも戦争を知っているように動く事。このことへの驚き、身体と分離してしまった内心の発見を通じて、この小説では戦争童貞性が描かれているのです。

初めての経験というものは本来受け身になりやすいものです。「初めての戦争」を描くのならば、概ねその経験は、一方的に襲ってくる戦争という驚異の中で、混乱しながらも生き延びていくという描写になるのではないでしょうか。しかし、この小隊では「誰も戦争をした事がない」という設定がそれを許しません。戦争に慣れたものが戦争を仕掛けてくるということはなく、語り手自身が戦争を駆動させることになります。

この『小隊』では紛れもなく誰にとっても初めての戦争でありながら、自分たちの内心と分離した自分たちの身体が、なぜか戦争に対して「受け身」になることなく、極めて能動的に、戦争を、まさに作り出していく様を、語り手は驚きを持って眺めるのです。

そしてその能動性は他にあり得べき描き方に比べて突出します。なぜならば語り手にとってそれは、誰か戦争経験者を見て模倣したものではないから。それは誰にも由来せずただ自分自身の習慣、自分自身の身体から発動するものであるからです。

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