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苦労人だねといわれるけれど

わたしが普通でないと気づいたのはごく最近のことだ。

以前から普通でない、おかしいと散々他者から言われていた。特に日本へ帰ってきてからは。それでも自分では「そうかなあ。自分の中では普通なんだけど」としか思っていなかった。

基本的にやりたいことをやって、好きな方へふらふらと行くようにしていたら、ここにいるという状態でしかないと自分では思っているのだが、わたしは本当に飽き性である。新しいことに触れていないと死にそうになり、「普通」の人から見るとただただあいつは何をしているのかということらしい。

いろんなところで「続けることが美である」のような意見を見てきて、「いや〜我慢しているのなら続けていても美ではないだろ」と思っていたのだが、続けられることは我慢が伴わないものであるということにやっと気づいた。わたしは人よりも我慢の容量がとても少ないため、一つのことに対する我慢ができなくなるとすぐ違うことに手を出す。(ゆえの飽き性なのだが)
そんなわたしが興味を持ち続けていられることの一つは、人の困りごとに解決案を出すことである。いわゆるおせっかい。いや、おせっかいなのだろうか?これはどうかというアイディアは出すが、その後どうなったかまでそこまで気にしない(結果には興味がない)のでフォローアップはできない。本人が根底にある望みに気づくのを手伝うのが好きなのかもしれない。

わたしはとても極端で興味のないことには全く動けない性分で、例えばアイディアや解決策、仕組みを考えることは大好きだがその先の売り上げの作り方や利益率などの数字(いわゆる結果)には興味がないのでコンサルにはなれず、壁打ち相手にしかなれない。人を知ることは新しいことに触れることなので興味対象だが、その後の相手の変容はどうでもいいのだ。お前は最後の詰めが甘いと学生時代から言われていたような気がするが、まさに今も変わらずその通りである。

特性を生かしつつ、どうにか生きていかないといけないなぁとまた考え出しているのでここへ綴っていきたい。波瀾万丈なのは結果論であって、そうしたくてしているわけではないと思っている。ただわたしの最善を選んだところ、そうなってしまうのである。それが苦労人なのだろうか。ちょっとこのあたりもう少し考察してみようと思う。