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なぜ日本は性加害に甘いのか?③本の紹介「買春する帝国―日本軍『慰安婦』問題の基底」

前回からの続きです。

第一次大戦後

1920年代、貸座敷に上がった買春男性の数は年間でほぼ2200万人台。
当時の内地の成人男性の数は約1600万人なので、成人男性一人あたり年間約1.5回買春していたことになります。


第一次大戦後は国内での性買売の態様は大きく変化していきます。
新しくカフェやバー・レストランの女給、仲居やデパートの売り子、ダンスホールのダンサーのなかにも性買売をするものが現れます。
カフェやバーは大正の初め頃には、しゃれた建物で女給が飲食物を運ぶか、エプロンをかけて酒を勧めるものでしたが、1923年の関東大震災を転機に遊興・歓楽の場に変わっていきました。


国際的には第一次世界大戦後の1920年1月に国際連盟ができました。
日本も加入して常任理事国になったことから、女性の人身取引の問題は日本が避けて通れない問題となりました。


連盟規約第23条に白人奴隷取引禁止条約(1904年協定・1910年条約)の実行監視が規定されたからです。
1921年には女性児童の取引禁止に関する国際条約(1921年条約)が新たに締結されました。
この条約は1904年協定・1910年条約の未加入国は速やかに批准すること、無条件に性売を禁止する年齢を1910年条約の満20歳未満から満21歳未満に引き上げることなどを規定していました。
日本はこの条約に調印せざるをえませんでした。


1910年条約は、性買売を目的として未成年(満20歳未満)の女性を勧誘・誘引または拐去した者を無条件で(女性本人が同意していても)処罰する義務を批准国に課していました。

また、成年の女性についても、性買売を目的として詐欺または暴行・脅迫・権力乱用その他一切の強制手段により勧誘・誘引または拐去したものを処罰する義務を批准国に課していました。
日本の公娼制度では年齢制限は18歳未満だったので年齢に関する規定と植民地について、朝鮮、台湾、関東租借地、さらに樺太、南洋委任統治領には適用しないという留保をつけて批准しました。(1927年年齢に関する留保を撤回)
さらに、この条約は複数の国にわたって行われた不正行為に適用されるものであって一国内で行われた不正行為には適用されないと解釈しました。


植民地への適用を留保したため、朝鮮、台湾、関東州、南樺太、南洋諸島からは、女性たちはほとんど制限なく海外に人身取引される状態が続くことになりました。
もし条約が植民地にも適用されていれば、朝鮮・台湾などからの軍慰安婦の戦地への送り出しは相当困難になっていたでしょう。


国際連盟調査団の調査と勧告

1931年国際連盟の東洋女性児童取引実地調査団(ジョンソン調査団)がアジア諸国の調査をしました。
バンコク、インドネシア、中国本土、満州、朝鮮、日本などです。
調査は原則として国際取引に限られます。



1933年報告書が公表されました。日本についての内容は次の通りです。

①    日本では性売女性のための特別紹介業が法律で定められており、周旋業者はなんら非合法な方法を用いる必要が無い。周旋業者は農家の娘を騙して海外に移送している

②    自由廃業に関して、女性が娼妓名簿からの削除を申請したときには、警察が業者と本人またはその親と協議させて圧迫するなど、しばしば契約期間満了または前借金完済まで廃業できないおそれがある

③    救世軍によれば、助けを求めてきた芸妓の大多数は雇い主に性買売を強要されたために逃亡したのであり、成年に達すると性売女性にされる



調査団は、アジア全体に関する勧告として国際的人身取引をなくすためにはその取引市場である公認妓楼を廃止しなければならないとしました。
日本としては国際関係を重視するならば廃娼は避けて通れないものとなりました。
そのため政府内でも廃娼が検討されますが、実現できないまま1937年からの日中全面戦争となります。

続く


執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

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