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子供の頃のひなまつりの思い出

今年の3月頃、Twitterでこんな呟きを見た。
「ひな祭りのご馳走といえばドラえもんの入れ物に入ったちらし寿司。ひな祭りが近づくと流れるちらし寿司のCMに胸を弾ませた思い出」

この呟きを見た瞬間に、ぶわーーっと昔の記憶が蘇ってきた。 
なんだか水の中にいるような感覚だった。
なんで、こんなに好きだったものを今まで忘れてたのだろう。

私は小さい頃このドラえもん寿司を母によくねだっていたが、その頃の母は今と比べるとうんと厳しかったし、
「そのドラえもんの箱が必要なの?中身は同じよ」という言葉に「その通りなんだよね」と少し納得させられかけていた時点でもしかしたらそんなに必要ではなかったのかもしれない。
いや、大事なのは必要かどうかではなく欲しいかどうかなのだが。
子供が何かを欲しがる時に実用性なんか考える訳がない。例え使わないものでも良い、既に同じようなものを持ってたとしても良い、欲しいから欲しいのだ。それ以上に理由が必要だろうか。

ともかく私は、その時期になると毎年ねだっては母に止められるということを繰り返していた気がする。


ドラえもんの寿司のネット記事を読みながら画面をスクロールすると、ある写真が目に止まった。

どら焼きで出来た寿司だ。

この写真を見たときに私の口の中で独特の味がした。
甘くて柔らかいどら焼きと、その中に入っている酢飯、ツナ、レタス。
後にも先にもこんな味がする食べ物は一つしかない。
私はこれを食べた事がある。
私が想像していた味とはかけ離れており、肩透かしを食らった記憶がある。お母さんからは「見た目通りの味でしょ。具材を見れば想像できる」と言われた記憶が。


なんだ、私は食べていたんだな。
Twitterで見かけた「ドラえもんの入れ物に入った寿司」は結局食べてなかったけど、ドラえもんの寿司自体は食べていたんだ。
そう思うとなんだか暖かい気持ちになった。


調べているうちに、ドラえもんの入れ物に入った寿司を物凄く食べたくなったのだが、現在小僧寿しとドラえもんの契約は既に切れており、再コラボは望めない。
小僧寿しは昔に比べて店舗数が減っているから、いつかはもっと遠い存在になるかもしれない。
大山のぶよのドラえもんはもういない。
なんだか、懐かしくて、それから悲しくなった。


みんなは、子供の頃に手に入れられなかったものを大人になってから手に入れたという経験はあるだろうか?
大人になってからだとやっぱり嬉しさの度合いがかなり少なくなるけど、でも手に入れられるのだから、あれはまだ良かったのだ。
子供の頃に手に入れられなかったものを大人になっても手に入れられない、なんて、これ程悲しい事は無いと思う。


余談
ドラえもん寿司でおなじみ「小僧っ寿っしチェーン♪」の思い出と現在。 https://middle-edge.jp/articles/xnZrY 

信号待ちをしながらこの記事を見ている時に、誤って動画の再生ボタンを押しまったらしく、深夜の横断歩道に爆音のドラえもんが鳴り響いたのは秘密。

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