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わたしたちの人生はこれからも交わることはないけれど、あの一瞬だけはいちばん近い場所にいた。

(あるコミックスのネタバレを含みます、ご注意ください)

物語と現実の境界線は、ときどきかなり曖昧になる。舞台が、わたしの日常に通じれば通じるほど、よりよく混同できる。公私混同だ。
わたしの物語では、決してないというのに。それでも、重なって混ざって、わたしの人生で起こった衝撃的な出会いを思い出させたりする。

*

その日は朝から雪が降っていたらしい。そして、それぞれの分野で研究に没頭していた2人の青年は、全部が全部うまく回らない渦の中にいた。

仕上がらない作品や論文、次から次へと降りかかる失敗、ダメ出し、年下の成功…。時間がない、時間がない。不安と焦燥ばかりが積もり積もって、がんじがらめに動けなくなる。「おれ、むいてないのかなぁ…」と誰もいない場所でつぶやいてしまうぐらいに。

そんなときに、1人の青年が2枚のチケットを手に入れる。『フェルメール』と書かれた青いチケット。17世紀を代表する有名な画家の絵が集まる展示会。。展示はその日までだった。ギリギリ間に合うから、行っておいで。いまから!?慌てる青年に、手渡した大人はこう告げる。


あせらないあせらない。大事なのは集中力だ。
それを取り戻しておいで。


そうしてチケットを受け取った青年は、渋るもう1人を引っ張って、雪の中、東京の美術館へ向かう。決して近くはない道のりを、小さな文句やそわそわをなだめながら。美術館へ着き、目的の展示会場へ足を踏み入れた瞬間に、行き渋っていた方の彼が「うお」と小さく唸った。


そこへ足を踏み入れたとたん僕らの日常は消え去った


たしかに美術館はどこかひとを浮世離れさせるところだ。それぞれの絵に感想を言い合いながら進む彼らは、その展示で、もっとも注目されていた1枚に行き着く。


『天文学者』 (1668年/ヨハネス・フェルメール)


ぼくらはここにきて正解だった。ぼくは美術の力というものを思い出した。


青い服を着た、髪の長い男。広くない部屋の片隅、窓から差し込む鈍い光に照らされ、天球儀に指を這わせる。宇宙と、孤独と、そして祈りを彼らは見た。


1枚の絵は400年をとびこえて未熟なぼくらの背中をおした

そして彼らは帰っていく。自分たちが集中すべきものと、ふたたび向かい合うために。

*

なんてことのない土曜日の夕方。わたしは、彼らのまぶしい青春がつまった1冊のコミックのに収録されたそのシーンに遭遇し、途端に胸をバクバクさせた。

いっそ走り出してしまいたかった。だってわたし、それ知ってる!わぁっと騒ぎたかった。

彼らを通して思い出した。わたしもフェルメールの『天文学者』に出会ったとき、彼らの、その時その瞬間に感じたことを。奮い立つしかない大きな力を。

自分の人生が、まったく知らない他人の人生とシンクロする。完璧に重なりあってはいないけれど、ある一部のフィクションを除いた部分で、わたしたちはいちばん近いところにいたのだ。絶対にそうだった。思い出した。

2015年、たった1500文字の文章で何度もダメを出されていた、冬。埋まらない、真っ白いままのテキストエディタを見つめてため息をついていたら数日が過ぎる。酷い有様だったと思う。

見かねた同居人からは、「息抜きができるまで帰ってくるな」と家を追い出される始末。途方に暮れていたとき、たまたま思い出したのが新国立美術館で開催された、ルーヴル美術館展だった。閉館ギリギリに滑り込んで、現実味のない展示会場を進む。数ある日本初来日作品の中で、わたしも立ち尽くしたのは、静かなのに衝撃的な“青”。

フェルメールの『天文学者』を前にして、泣きはしなかった。ただ、光を得るってこういうことかと思った。彼らが見た、宇宙と孤独と、ひたむきな祈りを感じて。

錯覚じゃないかと疑う程に近い、忘れていた記憶が出てきた。頭も顔も心臓も、信じられないぐらい熱かった。

*

わたしは圧倒的に忘れっぽい。自分の記憶なんて5分で信用できなくないし、どんな感動だって次の日の朝には8割減にしか思い出せない。悲しい。

それがわかっているから、記録しようと意識できたときだけ手近にあるもの(紙やスマホ)にメモを残すようにしている。けれど、残したい強烈な感動と出会った瞬間は、記録しようという意識ができると思うだろうか。思い出も感動も、形がないからすぐに霧散してしまう。残せるメモも残らない。本当に、悲しい。

ちょっと、書いていて落ち込むほどの忘れっぽさを告白したけれど、忘れていたその瞬間を思い出すことが往々としてある。悲観しすぎたりしない。
たとえば、誰かの物語をきっかけに、自分の人生が、時間も場所も越えて、まったくの他人の人生とシンクロして。とんでもない方向から、なんの準備もしていないときに。

なんでもない土曜日の夕方に、1冊のコミックスを読んで思い出す、みたいに。

錯覚だと言われるかもしれない。フィクションの中を生きる彼らの、人生の出来事。本来なら交わらない。これはわたしの物語だ、なんてそんなことは言えない。だって、フェルメール以外のあれこれは、経験したことがなかった。(他の物語ももちろんおもしろかった。誰かの青春はいつだってうらやむほどに眩しい。)

でも、心が震わせた対象がおんなじで、そこに至るまでの経緯も似ていて、わたしたちはこの時いちばん近い場所にいたんだ。錯覚だと言われても。

土曜日の夕方のことを、もう明日には忘れているかもしれない。あるいは、こうしてnoteに書いたから、来週辺りまでは覚えていられるだろうか。どちらにしても、忘れることが前提なのは、やっぱり悲しいかな。

ただ、忘れてしまっても、ここからまた思い出せる。そうしてまた、彼らを通して心を震わせるのだ。何度も。




*素晴らしくまぶしい、青春を描いたコミックスはこちら。

著者イトウハジメさんの日々が流れてくるInstagramも無敵にまぶしいです。




最後まで読んでくださりありがとうございました。スキです。