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「坊にもなった」
「坊ですか」
「うん。山上知るおさん」
「だれだろう」
「道を行けば家を燃やす。四十の畑を耕し、晴れた日自前の船は勝手に転覆、子猫を追っかけて叔父を拾い、夢の中でスペイン語を喋った翌年立ち幅跳びで国体に出た」
「知らないなァ」
「この世の全てを経験した」
「ほゥ。すると彼、何の人です」
「何でもない」
「何でも。仕事は」
「ない」
「なあんだ。なんだか、もったいない気がする。いや、皮肉だなァ」
「なに」
「そりゃ、経験に殺されたようです」
「誰だ」
「まァ、いいです。何がです」
「ふん。知るおさん、こんなこと言う。——経験ばかりして、何も成さない。生きている意味がない」
「ほら」
「——人はそう言う。けれど、僕は知らないさ」
「知ってるのでしょう」
「——生きる意味なんて知らない。ただやりたいことをやって、それだけがほんとうだ」
「なんだか、経験のための人生かなァ」
「——そう思うと、嬉しい。取り返しがつかない」
「そうでもないなァ」
「——おい、だんだんさっきから経験がない」
「あれ。ほんとに」
「これじゃ、人生だけだ」
「困るなァ」
「出てみようか」
「出てみましょう」
「——やっぱり、止そう」

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