見出し画像

黒く濡れてひかる眼


わたしが彼をはじめて見たのは
2階『生物学』のコーナーだった。


色彩に乏しく、見た目に「今」がなかった。
すべてにおいて、「ぼんやり」としていた。
服装、雰囲気、髪型、
白髪までは確認することができなかったが、
耳にかかるくらいのややうねりのある黒髪で、襟足は中央に寄る癖があった。雨上がりで湿度があったせいか、襟足の寄り具合は、まるで書初め用習字筆のようだった。

美容師をしていたせいか、
わたしは、髪を見ただけで髪質や癖の特徴を掴んでしまうという特徴がある。何の役にも立たないことは、わたしが一番よく知っている。

「今」がなく「ぼんやり」した彼を
なぜ覚えたかというと、彼がいる『生物学』の後ろを通って、『化学•天文学』を通り過ぎ、
『風俗•習慣』のコーナーに行く必要があったからだ。彼を視界に入れることなく、そのコーナーにたどり着くことは不可能だった。
習字筆に気を取られた時、香ばしいパンの香りがして、
一瞬にして暖かい雰囲気に包まれた。


この図書館にパン屋なんてあったっけ?


パンの香りが彼から漂っていたものだと分かるまで
少し時間が必要だった。少しだけ、

あまりにも香ばしいもので、辺りの人は気にならないものかときょろきょろとしたら、彼とすぐに目が合った..。まるで絵に描いたような金壺眼、どんぐり眼に驚いたわたしは、その眼から約3秒間、眼が離せないでいた。マスクをしていたせいか余計に眼のくぼみが強調されていた。それからわたしはこう思う。


人の眼、誰かの眼、
やはり眼を見つめることが好きだと。
いい眼が好きだ。どうしよう、、


彼の眼は貧相で「今」っぽさはなく、
むしろ江戸時代へタイムスリップしたような創り。

そして「ぼんやり」と彼は、

エトピリカ。
と言った。

はい?あ、すみません。
彼の眼を見つめてしまったわたしがいけないのだと思い謝る。鼻の奥に香ばしいパンの香りを残して、目的のコーナーへ向かった。


『風俗•習慣』のコーナーでまず目にしたものが、
清少納言の枕草子「うらやましげなるもの」
髪いと長く麗しく、下りばなどめでたき人。
目的の書籍とは違ったが、江戸時代の「うなじメイク」のページを読んでいた。ふと、右手で自分のうなじを触るように肩下まである髪の毛を弾いた。


あ、エトピリカ⁉︎ すみません。


習字筆の彼がわたしの後ろに立っていたのだ。
2度になる驚きを隠せなかったわたしは、
金壺眼のどんぐり眼をまたじっと見つめ、
左手で右の耳上からある髪の毛をすべて左肩に乗せ、わたしは彼にうなじをそっと見せた。
それは、くびれとふくらみを同時に見せるようなもので、3度目に3秒ほど互いの眼が重なる時だった。
わたしの身体がぴくっと動いた瞬間から、香ばしい香りはどこかへふうわり消えた。

そして、じんわりとあたたかくなる。
これを何といおうか、エトピリカ。










あたたかくなる。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?