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鎌倉時代はやっぱり1192年からだった!?

いい国作ろう鎌倉幕府ではなく、いい箱作ろう鎌倉幕府ではないか?

という説が最近では主流となっています。

1183年 ・・・ 頼朝の東日本の支配権を朝廷が認める
1185年 ・・・ 源氏が壇ノ浦の戦いで平家を破り
          頼朝が朝廷に全国に守護・地頭の設置を認めさせる
1192年 ・・・ 源頼朝が征夷大将軍に任命される

鎌倉幕府の成立がいつなのか、かつては源頼朝が征夷大将軍に任命されたときが幕府の成立の時期であるとされていました。しかし、今では全国に守護・地頭を設置して支配力を全国に広めたことを頼朝の実質的な支配と考え、そのタイミングを幕府の成立の時期とするという考えが有力というわけです。

しかし、1185年説について少し考えてみましょう。

歴史というのは、当然、史料に書いてあることをもとに考えられていきます。

1185年に守護、地頭の設置を認めさせたという記載があるのは、鎌倉時代の歴史資料の中でも特に重要な「吾妻鏡」です。

『吾妻鏡』文治元年十一月廿八・廿九日条
廿八日、丁未、諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家・庄公を論ぜず、兵粮米段別五升 を宛て課すべきの由、今夜北条殿、藤中納言経房卿に謁し申すと云々。 廿九日、戊申、北条殿申さるるの所の諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰 あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言、勅を北条殿に伝えらると云々。

たしかに、守護地頭の設置を認めるような記述が存在します。

ところが、吾妻鏡というのは、同時代に作られた史料ではありません。

『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。日本における武家政権の最初の記録と、研究者の吉永博彰には評される。「吾妻鏡-Wikipedia」

つまり、我々は1300年ごろに伝わっていた100年以上前の話を参考にしているのです。

では、当時の資料はないのかと嘆く読者諸君へ。実はあります!!!

それは「玉葉」です。

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。「玉葉-Wikipedia」

同時代です!!ありがとう九条さん!!

『玉葉』文治元年十一月廿八日条
伝え聞く、頼朝代官北条丸、今夜経房に謁すべしと云々。定めて重事等を示すか。又聞く、 「件の北条丸以下郎従等、相分ちて五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜い、庄公を論 ぜず、兵粮段別五升を宛て課すべし、啻に兵粮の催しのみにあらず、惣じて以て田地を知 ただ 行すべし」と云々。およそ言語の及ぶ所にあらず。

同時代の貴族・九条兼実の日記『玉葉』に、「守護」「地頭」の語は一切みえません。この年に「守護」なる役職が存在し、頼朝がそれを全国規模で任命したことを根拠づける同時代の史料は存在しません。

その一方で、「地頭」に関しては、これより約半年前に、とくに朝廷の許しなどを得ずに頼朝が勝手に任命した史料があり、地頭設置も必ずしも「勅許」があったわけではないとされています。

つまり1185年説は必ずしも正しいというわけではないのです。そんな説を基に説明するのは癪なのでまた1192年に戻したらどうでしょうか。というのが僕の結論です。

さて、みなさん。歴史学はこんな感じでその資料が信用に足りるのかを絶えず検討する学問です。

皆さんは鎌倉幕府の成立の話になって、1185説を唱えてる人がいたら、ソースは?と聞いてみてください。(まあこれで吾妻鏡と答えられる人は相当な実力者ですが…)

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