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シルクロードの旅(24)ウズベキスタン共和国ブハラ市 前田敦子が日本とウズベキスタンの架け橋に!?

サマルカンド3日目、今日はブハラに向かいます。今回も特急アフラシャブ号に乗ります。そういえば、サマルカンド2日目が堀君の誕生日でした。おめでとう。

駅に向かうまでのタクシーですが、宿の近くのタクシーを拾います。その運転手は日本語をしゃべっていました。昔日本に留学していたらしいです。流暢に日本語をしゃべっていました。

日本と『旅のおわり世界のはじまり』という映画を共同制作してて、その縁で主演の前田敦子をタクシーに乗せたことがあるそうです。前田敦子と同じタクシーに乗った私は幸運です。

タクシー料金まあまあ高かったですけどまあよしです。メーター制導入してください。駅についたら運転手と三人で写真撮りました。日本とウズベキスタンの架け橋になれた気がします。ちなみにこの運転手はタジク系らしく、ブハラやヒヴァはもっとタジク系が多いと言っていました。言語的にはウズベク系と全然違うと力説されました。(実際タジクはペルシャ語系、ウズベクはトュルク系)

さて高速列車ですが、腹が最大に痛みます。世界の歩き方で風土病をめっちゃ調べて不安になっていました。ああ、このまま死んだらどうしよう。
一応サマルカンドの薬屋みたいなところで、下痢の薬をもらったの

ですが効いてる感じがしません。(高かったのに)

ブハラ到着します。ブハラ駅は非常に街の中心部から遠く、タクシーに乗るしかありません。

ブハラ(ウズベク語: Buxoro;ロシア語: Бухара́)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人(1995年)。

駅から旧市街にかけては非常に区画整理されていて広い道でしたが、旧市街に入ると道は迷路のようになります。ここは中世のイスラム都市の様子を現在に残しています。

古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。
1917年のロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラで革命が成功、ブハラ・アミール国が滅んでブハラ人民ソビエト共和国が成立した。しかし旧支配層から国外の汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗(バスマチ運動)や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解した。最終的に1924年にブハラ人民ソビエト共和国は解体されて、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシア語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されることもある。1991年にソビエト連邦が崩壊してウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再開発が進んでいる。ユネスコの後援で開催された[4]1997年のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけにブハラの歴史的建造物の修復が行われたが、建物が本来持つ特色が失われたという声もある一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。

宿に到着して、腹痛から、寝続けます。
堀君にアロエジュースを買ってきてもらいました。(高かったなあ)
夜飯は何とか外出して旧市街の建物の屋上でスープを飲みました。

その後気持ちいい夕方を池の近くでチャイを飲みながら過ごしました。

ちなみにこの池はラビハウズと呼ばれています。

ブハラの市街地のちょうど中央に位置しているラビハウズ。昔はお菓子やお茶、パンなどを売るお店が軒を連ねるバザールがあったそう。現在はバザールは開かれていませんが、ブハラ市民の憩いの場として親しまれている場所です。広場の周りにはブハラの代表的な観光スポットである、クカリダシュ・メドレセ、ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ、ナディール・ディヴァンベギ・ハナカがあります。ブハラ観光の出発地点としてもピッタリの場所ですよ!またラビハウズの周囲にはチャイハナと呼ばれるカフェも点在していますので、休憩場所としてもオススメです。

僕らがチャイを飲んだのはまさにチャイハナです。

東側の建築物がナディール・ディヴァンベギ・メドレセです。アーチに鹿をつかんで太陽の方へ飛び立つ鳳凰の絵が描かれていますが、これは偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反しています。ナディール・ディヴァンベギは、はじめはこれをキャラバンサライとして建てたのですが、完成直後にメドレセだと宣言したため、このようなことが起きたのだといいます。

翌朝、何とか体調が回復したので、ブハラを朝ブラします。堀君は昨日観光したので寝てました。ちなみに堀君は帰国後にお腹をぶっ壊すことになります。

ブハラを訪れる観光客のほとんどが行くと言っても良いほど人気の観光スポットが、このカラーン・ミナレット。青のサマルカンドと並び、ウズベキスタンのシンボルといっても過言ではないかもしれません。1127年に建てられたカラーン・ミナレット、なんと高さは48mもあるそう!当時のイスラム建築技術の高さが伺えますね。砂の色をしたカラーン・ミナレットが雲一つない青空に映え、圧倒されるような景色。

現地の言葉で「屋根」を意味するタキ。その名の通り、タキ・バザールはブハラ市内にある丸屋根を持つバザールの事を言います。かつてブハラ市内には5種類のタキ・バザールがあったそうですが、現在は、かつての中央アジア最大の両替所のタキ・サファラン、帽子・キッチン用品や日用品で有名だったタキ・テルファクプルシャン、そして36もの宝石商が入っていたタキ・ザルガロンの3種のみ残されています。ひとたびタキ・バザールに入ると、かつてのシルクロード商人の熱気が感じられる雰囲気となっています。荷物を運搬するラクダが通れるように作られた入口も、異国感で溢れていますよ!現在はどのタキ・バザールにも多くのお土産屋さんが軒を連ねていますので、ブハラ観光の締めくくりにピッタリですよ!

まあ朝早すぎて、活気もくそもありませんでしたけどね。

ブハラ市街地のど真ん中に位置している、マコギ・アッタリ・モスク。ブハラ最古のモスクとして有名です。諸外国の侵略などで何度も荒廃しては同じ場所に再建されたため、モスクの建物の柄が縦に3層に分かれています。一番下が仏教時代、真ん中がゾロアスター教時代、そして一番上の層がイスラム教時代のもの。ぜひ訪れたらこれらを見比べてみてください。干しレンガで作られ質素な外観に幾何学模様や赤土レンガを掘って作られた彫刻など、マコギ・アッタリ・モスクの内装は典型的なイスラム教建築の特徴とは少々異なりますが、それもまた魅力の一つですね。

ブハラ市街地の北西にどっしりと建つアルク城。ブハラのシンボルとも言える観光地で、ブハラ観光には欠かせないスポットです。人工的に作られた高さ約20メートルの丘の上にたつお城を囲む壁は、お茶碗を逆さまにしたような不思議な形をしています。なんと、初代アルク城が建設されたのは紀元前4世紀頃!荒廃を繰り返し何度も建て直されましたが、長い間ブハラの街を守ってきました。アルク城内部は、拷問室、牢獄、警備員の部屋、モスク、玉座や催し物会場となったホール、造幣所や工芸所など、多くの部屋があり、見学することができます。まるで城壁の中に小さな町があるかのような作りになっていて、当時の様子を垣間見ることができます。またアルク城内には博物館が併設されていて、お城内の見学と合わせるとアルク城とブハラの歴史がよく分かる内容となっています。観光の際はぜひゆっくりとご覧になってくださいね!

朝早すぎて、中に入れなかったんですけどね。

同じ宿には日本人のおっちゃんがいました。一緒にタクシーに乗って駅まで行くことになります。次の目的地はヒヴァです。おっちゃんはタジクにも行くって言ってた。バイタリティすごい。こういう大人になりたい。でも久しぶりに日本人にあってマシンガントークが止まらないみたい。ごめんなさい。我々は笑顔で聞くことが苦手みたいです。
駅の売店でハンバーガーのようなものを購入しました。このとき堀君はバナナを買っていた気がします。割と高価な値段だったので、輸送コストがかかっているのでしょう。

電車に乗ると、まさかの冷房が効いておらず、子連れの隣の席ということもありストレス状態でしたが、冷房が効いている上等車両に連れていってもらえました。よかったです。暑くて死ぬかと思いました。おっちゃんも同じ電車でした。

車窓からはアムダリア川が見えました。頼むからアラル海を救ってくれと思いながら、電車はヒヴァへ向かいます。

次回。持ち直したお腹。ロシア人と将来について語り合う。

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