「あるある」のない文化でこそ、コミュ力は磨かれる

家族で日本に戻ってきている。コロナ禍のため、3年ぶりの帰国となった。

子供たちはひさりぶりの帰国に大喜び。祖母を含む親戚たちにも会って、可愛がってもらい、楽しく過ごしている。

昨日のことだった。家族で妻の実家にお世話になっているのだが、義母が朝食を準備してくれ、その中に納豆が入っていた。11歳の次男はひきわり納豆が好物で、それを知っている義母が用意してくれたのだ。

次男はもちろん喜んで食べたのだが、面白いことがあった。

パックに入っている納豆から、からしとたれを取り出し、覆っているセロファンをはがして、箸でかき混ぜていた次男が、

「かきまぜるとき、ときどき箸が刺さっちゃって、入れ物に穴あいちゃうんだよねー」

と話した。それを聞いた義母が

「そうそう、おばあちゃんもそうよ。ときどき、間違えてお箸で容器に穴開けちゃう(笑)」

と返した。その後の次男の反応が

「うん!そうだよね!そうそう!やったー!おばあちゃんわかってくれたあ!」

と、大声をあげて喜んだのだ。

この次男の反応に僕自身が少しびっくりした。そして反省した。

マレーシアでも納豆は大手スーパーに行けば割と簡単に手に入る。健康にもよいので、我が家では常備しておいて、家族で納豆を食べている。次男もマレーシアで納豆を食べた経験は山ほどある。そのときに何度となく、容器に箸を刺してしまい穴をあけることがあった。そのことに僕は気づいていた。

だが、このような体験を共有する相手が、次男にはほとんどいなかったことに僕はその時初めて気づいた。学校の友人に日本人はおらず、納豆など食べない子がほとんどだ。納豆容器に箸で穴をあけてしまう「あるある」を共有できる友人は、いくら仲が良くてもいないのだ。

一方で、日本の彼の祖母はその「あるある」にすぐさま共感してくれた。

「自分の体験を共有できる人がいる」という感覚は「自分の気持ちを理解してくれる人がいる」という感覚とリンクする。祖母を「自分の理解者」として認識したからこそ、彼は非常に喜んだのだ。



そして、次男にかぎらず、マレーシアの子供たちは、いくら仲が良くても、共有できないことが山ほどある。インド系の子供たち、中華系の子供たち、マレー系の子供たち、そして外国人の子供たちは、プライベートではみな違った食生活を送り、違った慣習や行事に参加する。

もちろん、彼らは納豆を日常的には食べない。日本人のクラスメートのいない次男が、納豆について感じたことを共有できる学校の友人は誰もいない。
その時に感じたこと、体験したことを友人と共有するのは、日本にいるよりもずっと難しい。

僕はマレーシアで次男が「納豆容器に箸が刺さってしまう」といったことに、もっとキチンと共感すべきだったと思った。彼にとって僕は自分の体験を共有できる貴重な相手だったのだ。僕は心のどこかで「そんなん、あたりまえじゃん」と思っていた。そのことについて反省した。

そしてこのことは、他の友人たちにとっても例外ではない。中華系、マレー系、インド系が混在し、それぞれの母国言語も異なるマレーシアでは、子供たちといえど、文化が違う。日本と比較すると誰にとっても「あるある」が極端に少なくなる。

そして、その「共有できなさ」ゆえに、マレーシア人は人に説明することが上手だし、他言語の習得も早い。きちんと教育を受けていない人は、文法も発音もめちゃくちゃでも、身振り手振りもいろいろ加えて、何とかコミュニケーションを取ってくれる。

つまりマレーシアでは「わかりあえない」ことがデフォルト状態で、コミュニケーションによってなんとか「わかりあう」状態に持っていこうとする。そのため、コミュ力は全体的に高くなる。

この時代に求められるものは、これまで付き合いのなかった人々と、新たな関係を築くことだ。それをコミュニケーション力と呼ぶならば、マレーシア人は相当コミュニケーション力が高いことになる。

そして、日本人は低いと言わざるを得ない。理由は2つある。

ひとつは、英語ができないことだ。読み書きができても、翻訳システムがいかに発達しても、リアルタイムの会話で理解しあう能力がなければ、関係性を築くのは難しい。世界共通言語として最頻使用言語となっている英語の会話力は必須だろう。

もうひとつは、この例のようにたくさんの「あるある」を前提としてコミュニケーションをしているようでは、それを共有できない人々との間の関係性を築くのが難しいという点だ。

日本人のコミュニケーションには「文脈が重要」とよく言われるが、それは相手がどれだけ自分との「あるある」を持っているかによって決まる。

先日テレビで、くら寿司のCMにダウンタウンが出ているのを見た。浜ちゃんが、くら寿司を訪れ、キャンペーンの内容を紹介して驚いたりした後、こっそり席待ちの列に並んでいる松本を発見し「お前、なにしとんねん!?」とツッコミを入れるCMだ。

面白かったので笑ったが、このCMを楽しむにはたくさんの「あるある」が必要だ。まず、ダウンタウンの2人組の笑いのスタイルを知っていなくては、浜ちゃんのツッコミを様式美として笑えないし、松本が「笑いの大御所」という認識がなければ、彼がちんまりとくら寿司の開店を待っているというギャップに笑うことはできない。そしてダウンタウンほどになれば、日本中の老若男女がこのことを認識している。

だが、我が家の子供たちはこのCMを見てもポカンとしているだけだ。何が面白いのか、全くわからない。上記の前提を共有できていないからだ。

断っておくがこのCMが悪いというわけではない。日本国内で日本人顧客をターゲットとしている以上、くら寿司のCMの作り方は理にかなっている。日本におけるコミュニケーションには「前提となる認識(あるある)」が非常の多いという例として出しているだけである。

日本での日常のコミュニケーションでも、この「あるある」が重要になる。僕自身もそうだが、日本では自分のファッションや言動を決めるとき「普通みんなはどう思うか」を強く気にする。普通の恰好や言動をすることで「前提を共有しているよ感」を示す必要があるのだ。だから、企業面接には皆判で押したような無個性のリクルートスーツで行くし、「平服で」と言われてもフォーマルな恰好をする。

それはそれでよいのだが、国外に出るとそういった気遣いは意味がなくなる。そして、自分の個性や考えを明確に人に伝えることの方がより重要になるのだ。

長くなったが、本当のコミュニケーション力とは、文脈を共有できない相手と、新しい文脈を創って共有する力のことだ。そのためには語学力と論理思考が必要になる。そして残念ながら日本人相手に日本語だけでいくらコミュニケーションを取ろうとも、それで世界レベルに追いつくのは難しい。

ネットなどで言われる「コミュ障」という言葉は「コミュニケーション障害」を短縮した言葉だが、「文脈を読めない」という意味で使われているケースが多いように思う。

しかし、僕自身は「他人と文脈を作れない」という方がよっぽど深刻な「コミュ障」だと思う。そして日本の文化の中でのみ暮らしているとそうなってしまう危険性があると感じている。

その意味では、納豆容器に箸がささるという日本人ならではの文脈を共有できない次男は可哀そうと思いつつ、それを他の友人に説明して理解してもらえるように頑張ってもらいたいと思っている。

その一方で、文脈を共有して自分を理解してくれる存在は、多様性社会の中ではとても貴重だ。親として子供にとって常にそういう存在でありたいとも強く願っている。

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