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聖なるものの存在論

2020年のクリスマスはいつもの年とは大きく異なるものになった。
自分においては、しかし、また今年も「クリスマス・キャロル」の映画を観ながら、色々なことを考えているという点においては同じ時間も過ごしている。

今年は大学院の博士後期課程でケネス・J・ガーゲンの『関係からはじまる』(原著:Relational Being)を読んでいる。この本は、これまでのガーゲンの思索の集大成とも言えるもので、今までの彼の研究に立脚しながら、あえて自分の考えを前面に押し出して書かれている、非常に特徴的な本だ。

そして、極めて興味深いのは最後の12章で、そのタイトルは「聖なるものの探求」である。
ここでいう「聖なるもの」とは、神ないし人間を超えた存在とされるもののことを指している。
このことについて少し考えたい。

本題に入る前に、ガーゲンの思想を簡単に理解しておくと良いかも知れない。この部分は興味がなければ飛ばしていただいて構わない。

ガーゲンの思想を一言でいうのは難しいが、あえて言うならば、我々人間は自分自身に主体性があると考えているが、そうした境界画定的存在(bounded being)の考え方には様々な限界と問題がある。
存在とはそもそも関係性によって生じる。そして、私達は関係的存在(relational being)なのである。
どういうことか。
通常、我々は自分がいて他人がいる、と考える。しかし、自分と他人という人間の区別の仕方それ自体が、「人間は個々で別々な存在である」という関係性によって成り立っている。つまり、自己よりも以前に関係性が存在し、それによって自己が存在しているのである。
そもそも、「自己」という言葉それ自体が言語である。そして、言語とは関係的(社会的)に構築された一つの概念のシステムである。つまり、自己が存在するためには、関係が存在しなければならない。
考えてみれば、これは至極当然のことだが、我々は見落としがちである。
さて、こうして考えると、我々は関係性の客体である。主体は関係性であり、同時に、この関係性がダイナミックに編成されるときに、私達は違う存在へと変わる。一番わかり易いのは、会社では一社員であるが、家では親である、というような例であろう。関係性が異なれば同じ人間でも話す内容も感覚も変わる。人間の主体性とはそのくらいのものなのだ。
ただし、だからといって人間に何も出来ないわけではない。私達は、出身も異なれば、やってきた仕事も、受けてきた教育も家庭環境も、育った街並みも全然違う。つまり、様々な関係性の網目として私達一人ひとりは存在している。
だとするならば、異なる関係性の網目を構成する私達が出会うとき、新たな関係性の網目が生じる。そのときに、世界は新たに構成され、私達もその関係性の客体として、また新たな網目を生きる存在へと変わる。

さて、私達が関係性によって作られ、そして、同時に、関係性を新たに編み合わせる存在であるならば、聖なるもの、いうなれば、神といった超越的な存在を関係性の外側に存在すると考えるのは、論理的に整合しないことになるだろう。
神とは、宗教という伝統的な関係性が作り出したものである、ということになるからだ。

しかし、そうであるならば、聖なるものは存在しないとして良いのだろうか。この点こそ重要である。

今年は新型コロナウイルス問題で、多くの方が亡くなった。また、そうした病気に関わって、世の中は混乱を来し、多くの人々が苦しみの渦中にある。このような中で、人間の救済とは一体何だろうかと考える。
神がもし存在するならば、この病気にも意味があるということになるかもしれない。だが一方で、そうであるならば、別に人を殺したりしなくても良いのではないかとも思う。経済的に困窮して自ら命を絶つような人をどうして生みだすのかと思わざるを得ない。
だから、神など存在しないと考えたくなるのも無理はない。神は人類の痛みに共感しているというのも、あまり説得力を私は感じない。それを信じるか信じないか、という人間の営為に神の存在が帰着してしまうからだ。
それは単に人間の願望ではないかという素朴な疑問が生じる。

しかし、神という概念的存在を通じて、私達人間は何を得ようとしているのか、ということを考えてみたい。
おそらくそれは、聖なるもの、なにか私達がある種の正しさ、美しさ、それを前にして居直らざるを得ないもの、そういった存在に触れたい、何かそういったものを探求せずにはいられないということを示しているのかも知れない。
この点を考える上で、ガーゲンの『関係からはじまる』の12章は、大変に意味があるものだった。

結論から述べるならば、聖なるものは、私達の行いの只中に存在する、ということだ。
なにか超越的な神が存在して、私達に力を行使しているのではない。いや、そうかもしれないが、それについてはわからない。いくら人間が証明しようとしても、それは人間がそれを語っているにすぎない。言語の制約で、人間にはそれを捉えきることは原理的に出来ない。

ただし、私達は、自分の生きてきた伝統というものと、違う存在に出会うときに、それを歓迎し、そして、新たな関係性を紡ぐことは可能である。そのプロセスそれ自体にこそ、聖なるものが発現するのである。
他者と出会うことによって、「新たな私達」が出現すること、それは出会う以前に存在し得なかった関係性である。
つまり、私達の日々の行いを聖なるものとすることは可能なのである。

冒頭に今年も「クリスマス・キャロル」を観たと書いた。
主人公のスクルージは、最後に改心をして、貧しい人々、苦しみの中にある人々に貢献する人間へと変わる。それは神が為したことだと考えるよりも、それは精霊という寓話的な他者、もっと言えば、精霊という存在が見せた過去・現在・未来における出来事との出会いを通じて生じた出来事である。
その出会いの中に生じた新たな関係性によって、彼をして聖なる行いを成さしめたのである。

そのように考えたときに、私は常に問われている存在だと言わざるを得ない。
私に見えている世の問題などたかが知れている。だが、少なくとも見えている問題に対して何もしないことも、何かをすることもできる。
何かをすることを通じて、もっとその問題について知り、もっと深い取り組みをすることがあるかもしれない。

そのことを教えてくれた一人は、前回記したペシャワール会の中村哲さんだった。


中村さんは、最初から偉大なことをしようとしたわけではなかった。だが、彼が出会った他者に向き合うこと、受け入れること、その只中での一歩一歩の歩みが、彼をして聖なる実践を生み出したと言えるだろう。

なにか正しい存在が私達の外側に存在しているかどうかはわからない。
ただ、私達は他者との対話を重ね、聖なる実践をなすことは可能である。
もちろん、その実践は常に限界がある。私達には不完全な認知能力しかなく、正しさには常に議論の余地があり、誤謬をはらんでいる。だからこそ、その前提に立ちながら、その正しさの限界を告げる他者を受け入れていくことが、私達に聖なる実践を可能とさせる。

したがって、私達が不完全であることは、その意味で希望である。
常に不完全な存在として、他者に開かれていくこと、開いていくこと、そのことに聖なるものは宿る。
対話すること、それを実践すること、そのことを積み重ねることによって、私達は他者にとっても、この世界に聖なるものを宿すことは可能なのである。

人の命は儚い。私も死を免れることは出来ない。
この儚い人生において、わずかであっても聖なる実践を成すことが出来たらと思う。

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