見出し画像

「自分」を定義し続けて私たちは生きる。

「生きるって、定義の連続だと思う」
もう10年も前になるだろうか。そんな話を、かつての同僚としたことがある。

定義という単語には少々語弊があるかもしれない。自分の周りに存在するあらゆる事象や情報や存在や感情を、なんらかのカテゴリやタグを与えながら整理していく作業のことを指すからだ。だが、単純にラベリングとも言い切れない微妙なニュアンスの違いから、当時の私はあえて定義と呼んだ。

この定義を、私たちは目覚めているあいだじゅうずっと繰り返している。
朝起きる。その瞬間の感情を「憂鬱だ」「爽快だ」などと定義する。
通勤電車に揺られながら、隣のひとの新聞を横目で見る。あああの政治家がまた失言した。「彼は愚かだ」、と定義する。
クライアントの要求に対して「仕様変更」「追加見積」「無理難題」と内心でコメントする。ある意味ではこれも定義のひとつだ。
同僚と、仕事の進め方について議論する。自分はこう思う、だがあなたはそうではない、私とあなたの方針は違う。考え方の相違という、自分と相手との境界線を認識しどう言語化するか決めることもまた、定義といえる。
会社を出てどの店に寄ろうか考えながら歩く。今日は日本酒の気分、いやいやビールと餃子、そんな「今夜の私」の定義。
おはようからおやすみまで、あるいは夢の中においても、インプットとアウトプットに対して、「定義」という無数のレスポンスを打ち続けている。

思うに、この「定義」とは、外部からの刺激に対して自分はなにを感じどう判断・行動するのかという「私を私たらしめるなにものか」を形作っていく作業なのかもしれない。すなわち、「私という人間を定義するための定義」だ。

私は自分がなにものであるかを知りたい。私とはこのような人間である、ということを心から理解できれば、きっと迷ったり間違えたりすることは今よりずっと少なくなる。そう思って長いこと生きてきた。
けれど、日々新たな定義を続けている限り、私のかたちは変容し続ける。私が二度と変わらない私であると決定する瞬間、それは定義することをやめてしまった=死の瞬間だ。私という人間のかたちは、私自身の死をもって完成する。

「こうやってずーっと定義し続けて、自分が本当に固まるのは死ぬときなんだろうね。生きるってのは、自分はなにものかを線引きしていくことなのかもしれない」
と言うと、かつての同僚は「なるほど、デッサンを繰り返していく的なイメージだね」と、合点したような顔をした。彼は私のおぼつかない喋り言葉を、かなり正確に理解してくれるうちの一人だ。もちろんそれも、私の中で彼に対して行われる「定義」である。

そしてかつての同僚はその後、定義を変えて今は「夫」となっている。
みたいなオチがあると綺麗に話がまとまるのだろうが、そんなことはなく彼は元同僚のままだ。

写真は群衆のなかの個としての私。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?