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貧しさの本質との向き合い方(MOTION GALLERY Crossing #2)

 より”快適”で”便利”な暮らしの実現を目指して、世界は発展しつづけてきました。衣食住が整い、「生存」すること自体はさほど難しくなりつつある一方で、物質的に満たされていても、満たされない「欠落感」を抱き、自ら命を絶っていく人もいます。資本主義経済のもとの成長や競争は、生きる「目標」とはならないのでしょうか?生存本能とは違う「生きる意味」を私たちはどこに見出していけばいいのでしょう?生きる喜びや希望は、社会の変化とともに、これからも変化していくのでしょうか…?

 これまでにMOTION GALLERYを通じて作品づくりや活動を展開してくださったクリエイターたちと一緒に2020年以降の日本を”ソウゾウ”する企画「MOTION GALLERY Crossing」。第2回は「貧しさの本質との向き合い方」をテーマに、4人のゲストと共に考えました。

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 1人目は映画監督の竹馬靖具さん。引きこもりの青年を主人公にした『今、僕は』、強盗事件に関与した無名の青年と、熱い視線を浴びるアイドルグループを対比的に描いた『NINIFUNI』、ホームレスを地方の安い住まいに住まわせる代わりに生活保護費をピンハネする「囲い屋」の若者を主人公にした『蜃気楼の舟』など、様々な角度から、心理的な豊かさと貧しさを問うような作品を制作しています。

 2人目は、特定非営利活動法人自立生活サポートセンター・もやい理事長の大西連さん。ホームレスの方をはじめ、生活困窮者のサポートを行っているもやい。年末年始は行政機関の窓口が閉まってしまうため、その期間に一人でも多く暖かい布団で年を越せるよう、シェルターを借りて寝床や食事を提供する「ふとんで年越しプロジェクト」も例年実施しています。

 3人目は、南伊豆公舎代表の山之内匠さん。静岡県南伊豆町で、ひとりひとりの趣味や特技や好奇心を活かして、無償で“何か”を振る舞う場「giFt」を2018年に設立。「対価=お金」を超えた関係性やコミュニティのあり方を実践しながら探求しています。

 4人目は写真家の伊藤大輔さん。2016年までの10年以上、ブラジルに暮らし、リオのスラム街で写真を撮り続けていました。中南米で活動した約15年間の軌跡を、Night Butterfly(メキシコの娼婦)、Losolmo Gym(キューバの片田舎にあるボクシングジム)、Favela(ブラジル、リオ•デ•ジャネイロのスラム街)、Nativo(元ストリートチルドレン・ギャングの格闘家)の4章から成る写真集にまとめてもいます

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 さて、イベントは「あなたが今一番「生きている」と感じるのはどんなとき?」という事前質問への回答を考えてもらうところから始まりました。しかしなかなか答えに困る人が多い様子。「幸せとか楽しいという感覚はあるけど、生きている、というのとは違う気がする」「ビールを飲んでいる今の瞬間かなぁ」「幸せって思うのは、お腹いっぱい食べて、お風呂で温まって、ふかふかの布団で寝た時かな」「ポジティブな意味での“生きている”とネガティブな意味での“生きている”がありそう」など…。

(photo : Yuki Toda)

 身体的に満たされた状態が必ずしも”生きがい”と繋がるわけでもなければ、かといって精神的な充足感がすぐに思い浮かぶ人も見受けられず…。「豊かさ」や「貧しさ」は一体どこにあるのか。探求が始まりました。

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経済的な「貧しさ」による断絶

 南伊豆で山之内さんが運営するコミュニティ「giFt」は、お金を介さずに、それぞれが自分のもっているものや得意なこと、やりたいこと、できることを持ち寄る場です。ただ、このいわゆる”ギフト経済”の在り方自体は、「新しいものではなく、むしろ田舎の風景ではごく当たり前のこと」だと山之内さんは話します。

「お隣のおばあちゃんが拾った栗を持ってきてくれて、それを食べて感動して、翌日に自分の家族が東京からお土産で持ってきてくれたお饅頭を、そのおばあちゃんに届ける。そういう永遠に続くやり合いみたいな。“古き良き”をうまく新しい形でアウトプットして広く伝えていく方法を考えています。」

 このgiFtを立ち上げるきっかけになったのは、ミュージシャン活動で全国を旅していた時のこと。全国各地様々なライブに参加するなかで、多様なバックグラウンドの知り合いも年々増えていっていたという山之内さん。一方で、ライブの金額設定も、会場オーナーや主催者によって、投げ銭制の場合もあれば、エントランスフィーを設ける場合もあったとのこと。そのなかで参加費を支払えないために来られない友だちがいたことに、「言葉でうまく表現できない様々な思いが湧いてきた」のだと言います。

 社会の貨幣経済化が進めば進むほど、「お金による断絶」が生まれてしまう-。

 生活困窮者のサポートに携わっている大西さんは、リーマンショックが起きた時に、当時働いていた新宿で定期開催されていた支援活動に、見学を兼ねてボランティアに初めて行きました。食事の配布役を任された大西さんですが、あるホームレスの人に渡す時、その人の手が触れ、無意識に自分の手を引っ込めてしまいました。

「当時、歌舞伎町でバーテンとして働いていて、いろんな人の人生に触れていたので、あまり人のことを差別したりしていないと思っていました。だから無意識に自分のなかにもそういう気持ちがあったんだって思って…。その人は、気づかなかったのか、気にしなかったのか、慣れていたのか、「いつもありがとうね」と言って去っていきましたが、手を引っ込めてしまった事実が、じわじわと心の中に溜まっていきました。」

 生活に困窮した際には、生活保護を使える。このことは憲法でも法律でも認められている「権利」です。でもそれを当たり前に使えると思えている人も、使いたいと思っている人も多くはない、と大西さんは話します。年金を受け取るのも義務教育で学校に通えるのもみんな当然だと思っているのに、生活保護をはじめ、困っているときに使えるサービスに関しては、社会的・心理的ハードルが大きい。それはどこかに私たちが、「貧しさ」への差別意識や自分から切り離そうとする意識があるからなのかもしれません。

“貧乏”と”貧困”

 ブラジルのスラム街で写真を撮り続けてきた伊藤大輔さんは、被写体となるスラム街に暮らす人たちのことを「貧しい」と意識することはほとんどなかったと話します。

「ブラジルの人たちは遊び上手でしたね。美味しいものを食べるときにはちゃんとお腹を空かせて食べたり、ビールを片手にしていれば、みんな仲間になっていくようなところがあったり…。お金がないことを恥ずかしいことだとも思っていないと思います。ブラジル人の貧乏な人は基本ハッピーなんですよ。もちろんお金の問題は常にあるけど、暗くはない。アメリカだと貧しいスラム街といったら死と繋がるような暗いイメージがあるけど…」

 逆に日本においては「生活が苦しい人たちから、団体で年間4000件ほど相談を受けていますが、仕事にモチベーションを持てなかったり、精神的な病気を抱えていたり、ハッピーではない状態の人がすごく多いです」と大西さん。

 そして、「貧乏」と「貧困」の違いについても指摘します。貧乏は、貧しく乏しい、いわゆる「物」がない状態。一方、貧困は貧しくかつ”困っている”状態。家族や友達といった人間関係のつながりや支えがあったり、仕事へのモチベーションや様々なネットワークがあれば、”貧乏”であってもきっと楽しくやっていけるはず…。

社会と“分断”された感覚は誰もが持っているもの

 「貧しさ」を、さらに「困る」状態にする、関係性の乏しさやモチベーションの欠如。これらは、「貧しさ」如何に関わらず、今の日本社会に存在しているかもしれません。

 映画監督の竹馬さんがこれまで作ってきた作品は、いわば「社会にコネクトできない」人にフォーカスをしているものばかりです。なぜそうした人たちに焦点を当てたのか尋ねると、「自分がそれに近い存在だから」と竹馬さんは話します。

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