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エッセイの暴力性 〜自分の過去を人に話したい人へ。



どうも、あたいもちぎ。

知る人ぞ知る、すけべなゲイ作家。
だけど北半球1美しいゲイだってことは……きっとみんな知ってるよね?ウフフ


あたいは2021年1月の時点で、
ゲイ風俗やゲイバーにいた時の経験を基にした《コミックエッセイ》を6冊。
また、自身の幼少期や学生時代の半生を赤裸々に描く《文章のエッセイ》を1冊。

5社の出版社様から合計10冊の書籍を出版してもらってます。(残り3冊は小説と実用書と自己啓発書です)

さらに将来はあたいのヌード写真集を出して、全世界の男の心を射止める予定。
聖書ならぬ性書で歴史に名を残すんや……。


さて、エッセイニストとしても作家としても、まだまだ実力も知名度もなく、駆け出しの新人作家なあたいですが、今回はエッセイというジャンルの作家活動について《発信・作り手側に回って改めて感じたこと》を覚え書きのように残していこうと思います。


話の大筋はタイトルにもある通り、


エッセイは、自覚がなくともほぼ必ず《暴力性》を持ってしまうということ。


これについてです。


といっても、エッセイという《主に人間ドラマや思い出を描くようなジャンル》に、どうして暴力性という似つかわしくない要素が生まれるのか、きっとまだピンとこないと思います。
「エッセイの暴力性? あーあれね、あれよね分かる」とはなりにくいでしょう。

それもそのはず、世間に浸透しているエッセイは、作者の人間性が逸脱していない限り安心して読めるものがほとんどです。
ちなみにあたいは逸脱してます。

もちろん人間ドラマのみならず、告発のような人生経験の暴露、あるいは職業ルポのようなテイストで書かれていることもあり、過激な内容もたくさん描かれています。エッセイがホッコリゆるふわ日常だけでは無いのは確かです。

ですが、それらもドラマやエンターテイメントとして楽しまれ、あるいは社会学的な示唆に富むものだと評価されたり、世論に訴えかける効果を持ち、エッセイというジャンルの地位を強くさせています。要するにおもろいし人気があります。

たまにネットで炎上してるエッセイもあるけれど、ごく稀です。
あと言っておきますがあたいのエッセイは毎回世界中をエンジョイさせてます。


だから暴力性と言われても、よほど極端なことを書いているエッセイ以外はそんなもの存在しないと思うことでしょう。


だけど、あたいが指すエッセイが持つ暴力性は、ジャンルや作家性問わずほとんどのエッセイに宿るものです。
それはなにも特定の人間に対する悪口や誹謗中傷を含んだ復讐のようなエッセイだけじゃなく、どんな明るいエッセイにも存在します。

ただ、読者の方々にも気付かれづらく、しかも作者自身も忘れてしまいがちなものでもあります。



あたいは自戒を込めてそれを取り上げたいです。

そしたらなんやかんやで、
「おっ、こいつしっかり考えてエッセイ書いてんやな! ただのアホじゃなく、ちょっとがんばってるアホやん!」
ってみんなに思ってもらえるんちゃうかと考えてます。知らんけど。


では、ようやくですが本題に入っていきます。


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