同じ経験をしている人同士じゃないと支援は成り立たないのか?!
こんばんは。
MotherTreeみやざきです。
4月ももう半ばですね。
毎日締め切りに追われながら、どうにか生きている感じがします💦
今週末にオンラインセミナーでお話させていただくことになりました。
今、まさにそのスライドづくりの大詰めなんですが。。。
短大や専門学校の非常勤講師もしていますし、子育て講座もしているからスライドづくりは全く苦にならないのですが、今回依頼をいただいている「グリーフケア」に関する話は別です。おそらく10倍以上時間がかかっています。今日はその、「グリーフケア」に関する我が家ことをお話しながら、「支援」についての私の独断と偏見に満ちた想いを語りますねww
実は我が家には、生まれてすぐに亡くなった次女がいます。
「います」っておかしいか。
「いました?」でも亡くなったと言うなら「います」って言っていいのかしら?
とかね。
いちいち、自分が自分に突っかかってくるのですよ。こうやって時間がかかります。突っかかるのは、亡くなった娘を一人の人として大切に扱いたいと思うから。私が自分が大事にされていない、自分の人権を侵害されていると感じるのは、暴力とかそういうわかりやすいものではなく、相手の私に対する言葉遣いや言葉の端々にでる表現だと感じているからです。
ちなみに。「人権」を辞書で引くと、「人間が人間として当然に持っている権利。基本的人権。」とされているものが多くて、「人権」関係の団体のHPを見ると、人権とは、「生きる権利」「人間として生きる権利」「人として幸せになる権利」というニュアンスで書かれています。こういうものを見ちゃうと、亡くなった娘はもう生きていないから「人権」はないんだ。。。とか、地味に落ち込みます。
とにかく、私という人間は、本当に面倒くさい生き物なのです。
彼女が生きていたら、もう小学校2年生。
彼女が他界してから、ずいぶん時間は経ったものの、まだまだ受け入れられないことがありますし、未だに、彼女を想って泣こうと思えば秒で泣けます。ただ、今は「泣かない」ようにコントロールできるようになりましたが。
今回のセミナーは「遺族が遺族支援にかかわること」がテーマです。
人は同じ経験をしているからわかりあえるのか?
皆さんはどう思いますか?
同じ遺族同士だからわかりあえると思いますか?
同じ遺族の方が理解し合えると思いますか?
逆に、同じ大切な人を亡くす経験をしていない人には遺族の気持ちは理解できないと思いますか?
「あの人は子どもを亡くしたこと(がんなど他の言葉に置き換えられますね)がないからそんなことを平気で言えるんだ」
「あの人は子どもを亡くしたことがあるから、私の気持ちをわかってくれる」
という言葉を耳にすること、よくありますね。
同じ経験をしているからわかりあえるのでしょうか?
私は、「同じ経験をしているかどうか」は、必要条件でも、十分条件でもないと考えています。
なぜなら、私が遺族支援の団体を立ち上げたいとSNSでアップした際、「そんな身勝手な活動はやめろ!私も流産したけど一人で乗り越えた!あちこちで死んだ話をされたら見ている方が辛くなる」と猛抗議してきたのは、流産を経験した母親だったかからです。
もちろん猛抗議の背景には、複雑な人間関係もありましたが、
「自分は1人で子どもの死を乗り越えた」という言葉の端々に、彼女と私の価値観の違いを感じました。
私は娘の死を乗り越えられる日は永遠に来ないと確信しています。だから、受け入れるしかない(日常生活を送っていくために)と思って生きています。
「1人で乗り越える」という考え方もありますよね。
考え方は十人十色。そこにあるのは「違い」だけ。
人が感じること、考えることに間違いは1つもありません。
そこにあるのは、「違う」ということだけ。
このことからも、同じ(似た)経験をしても、同じように感じる、考えるとは限らないことがわかります。
ですから私が重要視していることは「それぞれが異なる経験をしていることを相手の立場に立って理解しようとしているかどうか」これには「自分の経験と相手の経験をごちゃまぜにしないで、相手の経験を相手の気持ちに立って理解しようとする」ことも含まれます。少なくともこれが必要条件だと考えています。
前述の彼女は、「あちこちで死んだ話をされたら見ている方が辛くなる」ともおっしゃっていました。
「誰かが亡くなった」という話は、彼女には全く関係のない、もしかしたら顔も知らない他人の話なのに、彼女は辛くなるのだと話しました。
これは、推測ですが、「誰かが亡くなった」お話を聞くことによって、自分が亡くした誰か、その自分の過去の体験を思い出して、辛くなっているのかもしれません。つまり。自分の経験なのか、誰かの経験なのか、ごちゃごちゃになっているということ。
普段、多くの人は、自分の感情の所以や行方をいちいち考えたりはしないのではないでしょうか?私もそうです。きっと、寝不足や仕事のモヤモヤみたいな自分の中にたまっているイライラを、夫のちょっとした言動で怒りを爆発させるという方もいるでしょう。
自分の感情、自分の想いでさえ意識せず、感情に振り回されて生活しているということに気づかずに生活している方も多いと思います。これは、自分の心に丁寧に触れられていない状態であって、自分の感情に気づかずに生きていることです。これが悪いのではなく、意識的に行わなければ、流れていってしまうことなんだと思うんです。
こういう風に、自分のこともよくわからないのが普通です。だから、おそらく、いや、これは私的に真実だと思うのですが、
「自分のことも含めて、誰かのことを完全に理解するのは不可能」だということ。だから私は、この考え方に基本に、日々支援にかかわっているつもりです。
「理解できないからこそ、少しでも多くわかりたいと思う。相手の方の想いに少しでも添いたいと思う」ことが、誠実な対応、寄り添う関わりになるのだと思うのです。
ちなみに、先に、「我が家には、生まれてすぐに亡くなった次女がいます」の表現で、細かいことを迷ってしまうということを書きましたが、お子さんを亡くされた方でも、細かいディテールが気になるという方もいれば、全く気にならないという方もいらっしゃいます。
逆に、「子どもを亡くしたことはないけれど、お子さんを亡くされた方のお気持ちを想うと、自分の言動で相手を傷つけていないかと、文章(や表現)の1つ1つが心配になります。」と話す方もいらっしゃいます。
自分には子どもがいないので
親の気持ちはわからない?!
私は非常勤講師をしていて、小児看護の授業を担当しているのですが、学生さんの中には、「自分には子どもがいないので親の気持ちがわからない」という方はかなり多いものです。そう話す学生に私はすかさず、「ではあなたは、亡くなっていく方への看護をする時、一度死んでみるのか」と尋ねます。ちょっと乱暴な表現だと自覚はしていますが、このくらいストレートな表現だからこそ、学生さんはハッとしてくれます。彼らの看護人生はこれからです。誰でも自分の経験がその方の価値観をつくっていくものですが、どうか、経験の有無で自分の力を狭めないで欲しいなと願います。
共にいること。共にあること。
同じ立場の人とかかわることが当事者にとって力になることは、私自身が遺族や孤独な育児、産後うつを経験し、周りの方に支えてもらったので、実感としてわかります。私のことであって、その方のことではないのに、共に悩み、共に考えて、時に共に泣き、共に怒ってくれる存在は、私のことを支え、勇気づけてくれました。
しかしそれは、同じ経験をしたから全てがわかる!と思うような錯覚でもなく、同じ経験をしていないから全く理解できない!と寄り添うことに匙を投げることでもなく、そこに居合わせた人同士、お互いを尊い存在と認め、「共にいること」を大事にする態度なのではないでしょうか。
どうしても(自分が)相手に元気になって欲しい、笑顔になって欲しい、いつまでも泣いていないで欲しいという想いから、してくれと頼まれてもいないのに、「がんばれ!」「(亡くなった人は)あなたに元気でいてほしいと思っている」「いつまでも泣いていたら(亡くなった人は)浮かばれない」と、叱咤激励してしまうものです。
自分の気持ちと相手のことをごちゃまぜにしないことって、本当に難しいですね。「共にいること・共にあること」簡単そうで、できないものですね。
まとめ
以上のことから結論を申し上げると、
私の個人的な考えですが、
遺族支援(というか支援全般)で、支援者になりうる人は、同じ経験をしているか否かは関係なく、その志と相手の身に立って考えようという努力ができる人であれば、どなたでもかかわることができると思っています。
そして、支援者に求められるチカラとは
・考え方は十人十色。その多様性を受け入れること
・相手の立場に立ち、相手の想いに少しでも近づけるよう努力し続けること
・自分の経験と相手の経験をごちゃまぜにしないこと
これらのチカラの根底には、
自分にも相手にもその人の人生を歩いて行けるチカラがあると信じられることが必要かもしれませんね~。
ああ。
文章を綴りながら、考えがまとまってきました。
上手く話せる自信はないのだけど、
私の話が、誰かのためになりますように。
きっとこういう活動の1つ1つが次女が生まれてきてくれた意味になっていくはず。そう信じて、苦手だけれど頑張りたいと思います。
週末お会いする皆さん。
どうかお手柔らかに。よろしくお願いしますね。