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企業の採用担当者の仕事は未来ある若者に勘違いさせることである

※この投稿は、天狼院書店が主催するライターズ倶楽部での課題投稿において、ボツになったものを掲載してみる試みです。面白ければ天狼院書店のWEB天狼院に掲載され、面白くなければボツになります。私は面白いと思って書いてるので、どこかで日の目を見せてやりたいと思っていた文章です。

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「いやあ、いいねえ!君みたいな人と仕事がしたいんだよ、僕は。ぜひ名古屋においで!」
日焼けした健康そうなおじさまが、今にも握手を求めて来そうなフレンドリーさをにじませて、ニコニコそう言った。

これは、30年ちょっと前に、学生だった私がかけていただいた言葉である。この一言が、私の真ん中に「社会は私を歓迎している」という思い込みを作ってくれた。そして、私はそのことを今も大変感謝している。その話を聞いていただけたらと思う。

当時の私は、親元を離れ札幌で暮らす大学生だった。「朝、起きられない」というしょうもない理由で一年留年し、まったくやる気のないまま何とか四年生まで進級にこぎつけたものの、卒業するのに足りない朝イチの講義の単位を、どうやってゲットしたらいいのかと頭を抱えていた。
そんなの、早起きすればいいだけなのだが、何しろ、やる気が皆無なので、布団から出られない。当然、そんな私が就職できるとは微塵も思っていなかった。

「このまま卒業できないなら、それでもいいや。中退して、ススキノで夜のアルバイトでもして、もらってくれそうな人と結婚して、へらへら暮らそう」
こんな夢想をしていた甘っちょろいダメ学生が、私だったのである。

が、時は1988年、陰りが見えていたとはいえ、まだバブル経済ははじけておらず、企業は学生の確保に血眼になっていた。卒業できるかどうかも怪しい私のところにも、同じゼミの先輩がしきりと、「うちに入社しないか」とお誘いにいらしては、お寿司や焼き肉をごちそうしてくださっていた。

何度も言うが、時はバブル期なのだ。
今の若い子にとっては、「死語」というより、もう「埋もれてしまい化石化して発掘されるのを待っている状態の言葉」だと思うが、当時は、「アッシー」(どこにいても呼べば車で駆けつけてくれる、自分の足代わりになる都合の良い男)「メッシー」(おいしいご飯をタダでご馳走してくれる、飯代を浮かせる都合の良い男)「ネッシー」(イギリスのネス湖に生息されると言われいていた恐竜の生き残り……はどうでもいいですね)というワードが世間を席巻していた時代である。

ご飯だけおいしくいただいて、面接にはいかないという選択肢もないわけではなかった。首都圏の一流大学を卒業しようとしているエリートの皆さんは、毎夜、「ぜひ我が社に!」と学生でありながらご接待いただいているというようなニュースも流れていたし。食い逃げは、まあギリギリ許される行為ではあったと思う。

だが、私は、しょうもない学生を採用するために、わざわざ静岡から札幌まで何度も飛行機でやってきて、ススキノで大盤振る舞いできる、その経済力にめちゃくちゃ心惹かれたのである。
「会社に入れば、こんなおいしい暮らしができるなら、入社してみるのも悪くないかも」と。

そこで、面接に行くことにした。

けれど、貧乏学生は、採用面接などという公の場に着ていけるような服を持っていない。そこで、狸小路に出向き、おばちゃん相手にやっていそうな洋品店を見つけ、売れ残っていたベージュのAラインのワンピースを購入した。これでよし。戦闘準備完了。そして、翌週、私は意気揚々と初めての魔都・東京に足を踏み入れ、企業の採用面接に向かったのだった。

会場に着くと、案内された控え室には、紺のスーツを着た人たちが大勢座って、びしっと前を向いている。
「うわ。何これ? 制服なの? 私だけちがうじゃん。これは落ちたかも……」
就活スーツの群れの中に、おばちゃん御用達の洋品店で買ったひらひらしたワンピでやってきた私は、もうそれだけでアウト!な感じだった。

「失礼します」
呼ばれて入った面接会場では、「こりゃ落ちた」と思っているので、言葉遣いこそ丁寧に、でも何でもあけすけに話しまくった。留年した理由(朝が弱いから)。志望理由(お寿司と焼き肉をごちそうになったから)。入社したら何がしたいか(わかりません。何をしている会社なのかもよく知らないので)。聞かれたことには、ニコニコと全部正直に答えた。馬鹿である。

そうしたら、冒頭のセリフを頂いてしまったのだ。
三人いらっしゃった面接官のうち、名古屋の事業所の製造部長がそう言ってくださった。

私はびっくりしたが、しかし、どれだけ驚愕していてもこれだけは言わねばと思っていたことがある。
「私は、親と折り合いが悪くて、何があっても実家にだけは帰りたくないんです。でも名古屋だと実家が近いので、帰らないといけなくなるかもしれません。申し訳ないんですが、それだけはどうしても嫌なんです」

よくぞまあ、である。
採用していただけるかどうかもわからない場面で、失礼を重ねまくった上に、さらに言うか、それ?
しかも、もろ手を挙げて歓迎してくださっているというのに。
今なら多少は大人になっているので、そう思うのだけれど、当時の私はとにかく自分の嫌なことは嫌だと駄々をこねる子どもだったのだ。

すると驚いたことに、その名古屋の部長は、浅黒い肌に白い歯をキランと光らせて
「いいねえ、ますます気に入った。まだ入社まで時間はあるから、ゆっくり考えてみてくれる?僕は名古屋で君が来るのを待ってるからね」
とおっしゃってくださったのだ。
すごいダメ押し!
これで落ちない女はいないんじゃないか?

浮かれた私は、ここで大いなる勘違いをする。
私はこの人に、ダメダメな私の中に眠る可能性を見つけてもらえた、と思った。
この人は豊富な人生経験から、私も気づいていない可能性を一瞬で見つけてくれたのだ、と思った。
名古屋にはいきたくないけれど、私を認めてくれたこの人のために、朝は起きよう、卒業しようと思った。
それくらい、認められた事がうれしかったのだ。

そこで、私は、一回しか会ったことのない部長のために、決死の早起きを敢行し(無理だという自信があるときには大学に泊まり込み、友達にたたき起こしてもらい)無事に必要な単位を取得して卒業し、その会社に入社することができたのだった。

名古屋にはいかなかった。どうしても嫌だったので。
そして在籍5年目に出産退職することを決め、会社とお別れした。けれど、その後、子どもの手が離れて再就職した時も「君みたいな人と仕事がしたい」と言ってくださった部長のお言葉が胸にあった。

あの言葉があったおかげで「社会は私を歓迎している」という謎の自信を持つことができた。いつも安心感がベースにあり、どこに面接に行っても落ちる気がしなかったし、実際落ちなかった。「だって、私、一緒に働きたいって思われてるんだから!」と。

採用担当の方のお言葉というのは、初めて社会に出る学生の未来をそれくらい左右しかねないものなのだ。

しかし、この話には後日談がある。
入社当時、名古屋にいた同期の一人が、旦那様の転勤で関東に来るというので久しぶりに会うことになり、その時、件の部長のことを聞いてみた。

「●●製造部の部長さんで、私たちが入った年に採用面接をやってた方わかる?」
「ああ!リニアさんね!」
「は? なにそれ?」
「あの人、誰にでも調子いいこと言って、すっごい軽いのよ。だから、いつもふわふわ地面から浮いてる『リニアさん』って呼ばれてたの」
えええええええええええ!? マジですか?
30年目にして知るこの衝撃。そして、さすがの電機メーカージョーク。リニアさんて。

なんと、私はお調子者の部長の、適当な一言で人生をよい方向に転換できたのだった。部長の発言に心があったのかどうか、それはもう、今となってはわからない。
けれど、あの一言で卒業まで頑張れたのは本当のことだ。その後の仕事人生も「社会は私を歓迎している」という前提で生きていたので、楽勝で乗り切れた。だから心があろうがなかろうが、そんなことは関係ないのだ。

未来のある若者に、やさしい一言を。
「あなたは社会にとって必要な人材なのだよ」と、自信をつけてあげてほしい。
そうすれば社会との幸せな関係を築ける人たちが増えていく。
企業の採用担当の方には、このことを切にお願いしたいのである。
≪終わり≫

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