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探究って何を教えればいいの?

2022年度から高校が新課程に変わって理数探究や総合的な探究の時間、地歴探究などこれまでとは異なる「探究」という強化が必修化されます。

では、探究とはいったい何なのでしょうか。

文部科学省の指導要領を見ると総合的な探究の時間の目標とは次のように書かれています。

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探究の見方・考え方を働かせ,横断的・総合的な学習を行うことを通して,自己の 在り方生き方を考えながら,よりよく課題を発見し解決していくための資質・能力を 次のとおり育成することを目指す。

(1) 探究の過程において,課題の発見と解決に必要な知識及び技能を身に付け,課題に関わる概念を形成し,探究の意義や価値を理解するようにする。
(2) 実社会や実生活と自己との関わりから問いを見いだし,自分で課題を立て,情報を集め,整理・分析して,まとめ・表現することができるようにする。
(3) 探究に主体的・協働的に取り組むとともに,互いのよさを生かしながら,新たな価値を創造し,よりよい社会を実現しようとする態度を養う。
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さらに、「探究とは,物事 の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営みのこと」と述べられていることから、
 ①課題の設定 
 ②情報の収集 
 ③整理・分析
 ④まとめ・表現
といった活動を繰り返しながら本質に近づこうとする中で培われる資質能力の向上が目的であり、探究という教科の中での成果を期待するものではなく、他教科や実生活においても広くその考え方・技能が活かされることが期待されていると考えられます。

そうなると、探究の時間において教えるべきことは何なのでしょう。

いや、そもそも教えようということ自体が違うのかも知れません。
私も実際に授業で探究を担当していますが、生徒が自ら調べ、考え、悩み、表現していく時間に価値があるのであって、私がやることは答えを教えることではなく、生徒の疑問や発想をぶつけることができる「壁」のような存在であることで、生徒がぶつけてきたことに対して、私の知っている範囲内での意見やアドバイスを返して、生徒自身が自分でその先に進めるように背中を押してあげることが役割だと感じています。

答えはここだよ、と示してしまっては、「物事 の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」ではなく、「与えられた情報を精査してまとめる活動」になってしまいます。それでは単なる調べ学習に陥ってしまうのです。

生徒がまとめた成果がスーパーサイエンスハイスクールなどで実践されている課題研究と比べ、内容が薄かったり、教員がもっと実験手法やデータ分析について教え込んでおけば良い論文になるのにもったいない、という状況になるのはある程度やむを得ないとも思います。

それは論文として賞を取ったり、成果を競ったりすることが目的ではなく、あくまでも生徒自身が主体的に「物事 の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」を行なってきた結果、生徒自身の資質能力を向上させることが目的だからです。

そして、そうでなければ文系探究は成立しないからです。

理科や数学ではスーパーサイエンスハイスクール指定校において課題研究が行われ、一定の成果を挙げています。しかし、だからといって文系でも同じことができると判断するのは早計です。

なぜなら、文学でも、歴史でも、その中で出てくる事象の大半は実験で得られる客観的な結果と異なり、あくまでも有力な「仮説」であるからです。要は文系探究においては、これが成果です、と明確に成果として結論付けることが大変に難しいということです。

歴史でも私が小学生のころ、鎌倉幕府成立は「いいくにつくろう鎌倉幕府」で覚えたもので、「1192年」でした。しかし、それが「1185年」と言われたり、諸説登場するようになっています。歴史は有力な説に基づいた仮説の連続であって、多くの研究者がその仮説をより確かなものに近づけるために何年もかけて数多くの文献を研究し、その根拠を補強して作り上げられているのです。それを高校生が1年から2年、週に2時間程度の時間で調べて新しい研究成果を出すという方が無理があります。

本当に深堀りする熱意のある生徒は自分でも足を運び、文献や資料なども休日も惜しまず自ら足を運んで調査し、学者顔負けの成果を挙げるケースが出てくるかも知れませんが、それは一部のレアケースであり、授業としての目標設定として成立しません。(もちろん、個人でそこまでやりたいという生徒がいれば応援するのは当然ですが)

よって、探究で目指すべきは成果ではなく、あくまでも「物事 の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」を行なってきた結果、生徒自身の資質能力を向上させることであり、培った技能を他教科や実生活で活かせるように気付きを与えることだろうと考えています。

ただ個人的には成果物の発表はした方が良いと思っています。
それはどこぞの論文コンクールで賞を取るとかではなく、自分自身が行ってきた「物事 の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」の軌跡を他者に説明することを通じて発表者自身が新たな気付きを得ることができる機会を作ることができると考えるからです。

もちろん目標があった方が生徒も意欲が出るという側面もありますが、
 ①課題の設定 
 ②情報の収集 
 ③整理・分析
 ④まとめ・表現
といった行動は文部科学省の資料では①~④が順に流れていき、らせん状に昇っていくイメージで描かれていますが、私は一方通行で順に進行するのではなく、それぞれがすべての項目に有機的に結びついてフレキシブルに往復し続けながら仮説の密度を高めていく(本質に近づいていく)ことが探究だと考えていますので、表現はゴールではなく、定期的に自分の考えを表現しながら気付きを得て、自らの仮説を高めるためのヒントを得ようとすることが重要だからです。

ただ、総合的な探究の時間については、何となくスタートしてしまうとただの調べ学習で終わってしまうと感じています。それを防ぐためには指導基準を設定したり、ルーブリックを作成して教員側の目線を合わせる準備が必要不可欠でしょう。

とはいえ、それよりも最も大切なことは生徒に探究的な学びを要求する前に、教員側も探究しようとする姿勢を持たなければならないということです。もし、それだけでも成り立っていれば、長期的に見れば探究学習は目的を果たすことができることでしょう。しかし、そこが不成立であれば、間違いなく一過性のブームにはなるものの、形骸化して廃れていく教科となることでしょう。

さて、どっちに向かっていくのか、楽しみです。

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