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「高校生がつくる水俣食べる通信」を東京生まれの僕がはじめるワケ

東京で育った僕が、縁もゆかりもない水俣に住みはじめてから7年が経った。
いま、『高校生がつくる水俣食べる通信』を創刊するプロジェクトに個人で取り組んでいる。この記事では、自分の人生を振り返りながら、プロジェクトのことや「なぜ水俣で?」「なぜ高校生と?」という疑問についてお話ししたい。

▼高校生がつくる水俣食べる通信の活動は、こちらのFBページで発信中▼
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はじまり、魔の三者面談


僕は、東京都町田市のサラリーマン家庭に生まれ、中学受験をして中高一貫のいわゆる進学校へ通った。中高生の時は、学校の勉強には全く身が入らず、部活のバスケットボールでも補欠、楽しみは部活が終わった後に行くゲームセンターや休み時間のプロレスごっこという、何をするにも中途半端な学生だった。
高校3年生になっても、受験勉強をする気にはなれなかった。「大学へ入ったその先の姿が見えない。みんなは見えているのか?見えていないのに、親や先生に言われたから大学へ行くのか?」と、友達が熱心に勉強している姿を捻くれてみていた。進路を決める三者面談で、素直に胸の内を話すと担任の先生は怒り、「おまえは絶対に2浪する」と悪魔の言葉を放った。その言葉を聞き、隣に座っていた母親は泣いた。

悪魔の予言は当たり、現実となった。いま思えば、大学進学以外の道もあったのだろうが、ほぼ全ての同級生が大学へ進学する環境だったため、当時の僕には他の選択肢が見えなかった。
僕が高校生だった1994年から1996年は、1992年に地球サミットがリオデジャネイロで開催され、地球規模の環境問題がメディアで頻繁に取り上げられる時代だった。いまのSDGsが話題にあがっている感じに似ていたと思う。子どもの頃から野生動物のテレビ番組を見るのが好きだった僕は、環境破壊の話題に触れるたびに胸が痛んだ。そして「人間は地球の破壊者なのか?」というようなことを悶々と考えた。
ある日の晩、母親が作ってくれた料理の皿を見て、目の前の食べ物がどうやって作られているか、分からない自分に気がついた。頭でっかちな自分の存在が虚しく感じた。頭と体のバランスがあべこべで、地に足が着いてない。そういう自分を改めるため、「まずは食べものをつくれるようになろう」と東京農業大学へ進学することを決めた。今に通じる道が、この時からはじまったように思う。

人生グラフを書いてみた


農業の現場へ


「自分は何も知らない。知らないクセに知ったようなことを言うのはカッコ悪い」。何か選択する時、この言葉が脳裏に浮かぶ。大学進学以降、対局の立場に立って、悩み葛藤しながら自分なりの答えを探すことを大切にしてきた。

大学では、主に国際協力や農薬・化学肥料に頼らない有機農業について学んだ。夏休みや春休みには、国内外の様々な農家を訪ねて、住込みで実習をさせてもらった。
大学卒業後の就職先は、大学で学んだこととは逆である農薬のメーカーをあえて選んだ。多くの消費者が農薬を嫌うが、国内の農家の99%以上が農薬を使うのが現状。外から農薬を否定するよりも、農薬業界で仕事をすることの方が、より本質に近づけると考えての選択だった。
社会に出てからの12年は、現場主義をモットーにしている職場で、とてもやりがいのある仕事をさせてもらった。しかし、現場で働くにつれて、集約的に行われる農業や市場流通の構造上の課題に違和感を持つようになっていた。

戦後の食糧増産政策で、日本の食料事情はとても豊かになった。大量生産、大量流通を支えるため農業は効率的に成熟した。その過程で流通の力がましていくと、消費者と生産者や田畑との距離は離れてしまった。
農が持つ食料生産以外の価値には、土の匂いや景観、生物多様性、野菜の個性や厳しい自然の中で生活する農家の哲学などがある。僕は農業の近くで生きて、これらのことに触れたおかげで、心が豊かになれたと実感している。農の価値は、流通の過程で削がれ、消費者がスーパーマーケットなどで農産物を手に取る時には、食料としての価値しか持たない。
「農の価値を食料生産だけに留めておくのは、もったいない。農産物の流通とは別の仕組みで、生産者と消費者をつなぐことが出来ないか」。僕は、その懸け橋になるため、農薬業界を退くことにした。

水俣へ


会社を退職した数か月後の2015年1月に水俣へ移住した。
きっかけは、東日本大震災だった。「会社あっての社会ではない。地域があっての社会なんだ」と頬打たれたような痛烈な反省。後悔を取り戻すように、東北の被災地へ行き、ボランティア活動をした。
福島第一原子力発電所の事故が発災した数ヶ月後、当時、近づくことが出来た土地の土を踏んだ。静かで、重機などの人工的な音が聞こえない。発災時から時が止まっているような、他の被災地とはあまりに違う景色を見ながら、これまで原発に対して無関心だった自分を恥じた。
会社の辞令で、熊本県の営業担当に任命された。しばらくして、大学からの友人が住んでいた水俣へ遊びに行くようになった。最初、水俣病のことは、特に意識はしていなかった。何度か水俣の人や自然に触れるうちに、水俣病への関心が生まれた。福岡で開催された『水俣展』で、水俣病の語り部の話を聞き、「水俣病事件」という言葉を知った。そして、経済を優先する社会の陰で犠牲となった命や暮らしがあることを痛感した。水俣病を教科書の中でしか、知らなかったことが悔しかった。
「もうこれ以上、この問題から目をそらせば、自分が許せなくなる。そして、水俣は福島の過去であり未来だ。水俣の同世代の人たちと一緒に未来をつくりたい。それが福島にも、つながるはず」と、水俣で暮らしながら未来への答えを探すことにした。

会社を辞めて、自分の問いや可能性に向き合って生きるのは、舗装された道を外れて、オフロードを走る感覚だった。
移り住む前から何度も水俣へ通った。イベントに参加したり、「九州の人たちに東日本大震災のことを知って欲しい」という思いで、岩手県大槌町の方を招いたイベントを自ら主催したりもした。
東日本大震災で入った『スイッチ』を原動力にして、気持ちだけが先走っり、空回りして失敗することもしばしばあった。
水俣の人たちは、そんな僕を大きな包容力で見守り、受け止めてくれた。

水俣食べる通信の創刊


食べる通信は、『つくるひと』である農家や漁師を特集した冊子と、彼らが育てた食材が一緒に届く定期宅配サービスだ。食材が届くまでのストーリーを知ることで、今までと違った『食』の体験ができる。東日本大震災をきっかけに始まった、この取り組みに共感して、僕も水俣食べる通信の旗をあげることにした。

食べる通信の取材で、水俣の農家・漁師を訪ねた。そこには、水俣病の風評被害などに翻弄されながらも「食」と「いのち」を大切にして守り、「自然と調和してどう生きるか?」という問いに向き合う人々の姿があった。

「(未来のために正しいことをするには)我慢に我慢を重ねることが大切」、
「水俣から逃げたかった。でも、(水俣で無農薬で食べものをつくることは)縁だと思った」、
「人とのつながりを大事にすれば、必ず自分も大事にされる」
といったピュアにいのちと向き合った人だからこそ発することができる言葉を聞いた。

彼らの姿は、消費社会が抱える課題の中で、苦しむ人の支えになると信じ、誌面で伝えた。素人編集長であったが、たくさんの方に支えられて、2020年6月までの約4年間に15号を発行することができた。

高校生と未来をつくる


水俣病(事件)のことを学びに多くの研究者や学生が水俣を訪れる。有難いことに、僕も学生の前で話す機会をいただくことがある。食べる通信でも、全国の読者に向けて微力ながら発信をしてきた。一方で、地元の子どもたちに、水俣のことを伝える機会は持てていなかった。

新型コロナウィルス蔓延の影響で、『人に会う、体験して学ぶ』という若い世代にとって貴重な機会が失われている。これを目の当たりにし、今こそ、地域で若い世代を育て、挑戦を支えるような仕組みが必要ではないか、それには『食べる通信』がぴったりではないか」と、昨年から準備をはじめた。そして、幸運なことに、今年度から地元の熊本県立水俣高等学校2年生の総合的探求授業とタイアップして取り組むチャンスをもらえることになった。
現在は、『高校生がつくる水俣食べる通信』の創刊(2022年12月)を目指して、6名の高校生と活動している。
まだ始まったばかりだが、このプロジェクトを10年以上続くものにして、高校生が地域の農家漁師から学び、安心して成長できる新しい「ふるさと」のかたちをつくりたいと思っている。


いのちの世界と経済の世界


僕が高校生の時から課題であった地球温暖化は現在でも深刻な問題だ。温暖化は、豪雨は災害を引き起こし、海の生態にも大きな影響を与えている。便利さ経済を追い求め、そこで生まれる廃棄物が生類の命や地球環境にダメージを与える構図は、水俣病が確認された65年前とあまり変わっていない。水俣で暮らしながら「なぜ繰り返すのか?なぜ変わらないのか?」と日々自問する。

先日、「このプロジェクトを通じて高校生に何を伝えたいか?」と問われることがあった。
はっきりとした答えはなく、何かを伝えたいというよりも、『いのちの世界』に生きる水俣の生産者の言葉や姿に出会って欲しいと思っている。
高校生たちが社会へ出て、様々な矛盾や問題に直面した時、『いのちの世界』はきっと彼らに勇気を与えてくれると信じている。

タコと漁師(当時86歳)


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