ダルマを生きる
インドから戻りました。
今回のインド修行は特に得るものが多かったと思う。
「新しい知識を得た」というより、
これからどう生きていくか。ということを確信した、という意味で。
とても清々しい。
インド哲学にはダルマ(darma)という言葉がある。
日本語だと「役割」と訳されていたけど、
「その人の人生の役割」という意味で、
それは生まれながらに決まっていると。
最初にインドに来た時には、この言葉を到底受け入れられなかった。
まず、「完全な自由」をゴールにするヨーガと矛盾する。
そして、個人的に「生まれ持ってその人の人生は決まっている」という考え方が嫌い。
人間は完全に自由で、あらゆる選択肢があり、可能性は無限。
その人が生きたいように生きればいい。
と考えていた(今もそう思っている)。
さらに、このダルマの考え方がカースト(インドだとヴァルナと呼ぶ)を受け入れさせるための都合の良い言葉に感じて、かなりの抵抗があった。
でもそれは、私の理解が「その程度だった」というだけで、
今は全く違う理解をしている。
ダルマとは、「役割」であることは変わらない。
ただ、
「その人だけが持つポテンシャルが最大限に生かされること」
「自分の本質(プルシャ)を生きること」だった。
それはヨーガのゴールそのもので、何も矛盾するものではない。
私は日々自分のダルマと向き合ってきたわけで、
今回そのダルマがさらに明確になった。
実はすでに、10〜15年前にそのダルマはある程度達成できていたけど、
これを保つことができなかった。
これはヨーガスートラにある「9つの障害」の1つで、当時の私はこれをクリアできなかった。
(「9つの障害」について、詳しく知ったのはこの後の話。早く知りたかった)
あの時、とても辛かったのは、
自分のダルマから離れていったからなのかもしれない。
でも、
本人が「やめた」と決めても、ダルマは決して離れない。
ずっとずっと、本人が気づくのを待っている。
プルシャ(魂)は普遍で、自分を表現することを諦めない。
「またチャレンジしてみよう」と決めたら、あらゆるサポートがやってくるようになった(気づけるようになった)。
そして、
「サレンダー(降伏、降参すること、明け渡すこと、(所有権を)放棄すること)」をやっと100%受け入れることができた。
結局私が思っていた自由というのは「自分でコントロールしたい」というエゴであっただけで、
ヨーギーにおいて「自由」とは、エゴを超えて、プルシャやダルマに全てを明け渡すことだとやっと腹の底から理解できた。
長いインド修行もそろそろ終わりに近づいている。
1つのダルマが終わろうとしている。
そして、これからの人生が楽しみで仕方ない自分がいる。