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水樹奈々の超絶名バラード「絶対的幸福論」はなにが「絶対的」なのか。


よくよく考えると、不思議な曲名である。

「絶対的幸福論」はラブバラードだ。
ひとりの男性のある女性への気持ちをまっすぐな言葉で歌い上げている。
特別お金持ちでも才能があるわけでもない。けれど、あなたのことを誰より大切に思っている。
そんな不器用な男性の愛情が、胸を撃つ名曲である。

こちらからショートバージョンが聴けるので、この記事を読む前に、未聴の方はぜひチェックしてほしい。

水樹奈々もこの曲には思い入れがあるのか。最近のライブではクライマックスのここぞという場面で披露されることが多い。

さて、そんな「絶対的幸福論」を先日のライブで号泣しながら聞いていたときのことだ。
ふと、脳裏にこんな疑問がよぎった。

「絶対的」な「幸福」とはいったいなんのことだろう?

そんなもん、あなたを死ぬほど好きってことじゃないの?
そう思った読者もいるかもしれない。

けれど、ほんとうにそうだろうか?

よく曲名を見てほしい。
冒頭でラブバラードといっておいてなんだが、この曲が歌っているのは、誰かへの「愛」ではない。
あくまでも、「幸福」について歌っているのだ。

わざわざ「幸福」といっていることから、そんなつくり手の意図が見えてくるように思える。

ここに鍵がある。そんな気がする。

つまり、ただのラブソングではなく、もう少し普遍の幸せについて歌っている。
そう考えることはできないだろうか?

そのことを踏まえて、歌詞を分析してみよう。

以下が「絶対的幸福論」の歌詞全文である。
やや長いが全文引用してみる。
JASRACが腕まくりして攻めてきそうだが、そんなものは無視だ。

幸せになりたい
幸せにしてあげたい
君のそばにいたい
僕のそばにいて欲しい

大したものは
買ってあげられないけれど
毎日笑わせてあげるからさ

かっこよくなりたい
やさしくなりたい
ずっとそばにいたい
死ぬまでそばにいて欲しい

怒られてばっかりの僕だけれども
いつまでも僕を叱って欲しい

好みが合わないことだって多くて
つまらない理由で喧嘩ばかりした

でも、どんな時も僕を支えてくれた
君がいるから僕は強くなれた

幸せになりたい
幸せにしてあげたい
君のそばにいたい
僕のそばにいて欲しい

これ以上ないくらい愛しくて
君とずっとずっと歩いていたいから

かっこよくなりたい
やさしくなりたい
ずっとそばにいたい
いつまでも離さないよ

しわくちゃになっても君のこと
守りぬくと誓うよ

幸せになりたい
幸せにしてあげたい
君のそばにいたい
僕のそばにいて欲しい

涙が出るくらい愛おしくて
君とずっとずっと二人でいたいから

だから
かっこよくなりたい
やさしくなりたい
ずっとそばにいたい
いつまでも君のそばにいたいよ

心が痛くなるほど
愛してる
愛してる
愛してる

こんな僕だけど君のこと
幸せにすると誓うよ

みなさんはどう思っただろうか?

ちなみに、僕は最初にこの曲の歌詞を見たとき、「ウィンウィンなんだな」と思った。
ビジネス的でロマンのかけらもない表現ではあるが、しかし、これは案外いい線を突いているのではないかと思う。

その核心は冒頭の歌詞に明確に表れている。

幸せになりたい
幸せにしてあげたい
君のそばにいたい
僕のそばにいて欲しい

「幸せになりたい」「幸せにしてあげたい」と対になるフレーズが配置されていることに気づく。

「絶対的幸福論」の主人公である男女のなかには、相互扶助的な関係性が存在していることがわかる。

大好きなあなたの幸せを祈ることは、この手の歌の主人公においては、わりとポピュラーな態度である。
しかし、そのあとに自分の幸せも祈るのは、少しめずらしい。

さらに直後のフレーズでは「君のそばにいたい」「僕のそばにいて欲しい」と歌っており、ここでもどちらが一方的に相手を守るのではなく、お互いがお互いを支えあう関係性であることがうかがえる。

これが曲のなかで3度も繰り返されている。まったくおなじフレーズで。
「絶対的幸福論」の神髄がここに詰まっているといえるだろう。

そのほかにもおなじ傾向のフレーズが登場する。
「ずっとそばにいたい」と相手と添い遂げることを願えば、「死ぬまでそばにいて欲しい」と逆からも表現してみせる。

ここでも相互扶助性がはっきりと読みとれる。

つまり、「絶対的幸福論」男性が女性を一方的に幸せにするという思想に立っていないのだ。

この事実は、とかく「守る男、守られる女」という一面的になりやすい歌詞世界において、新しい価値観を提示したといえるだろう。

大げさだと思うかもしれない。
だが、この記事は信者が教祖のすごさを謳い上げたテキストである。
思い切って、めちゃくちゃ大げさな表現を試みれば、「聖書の注釈」である。
自然、テンションは熱に浮かされたようになるが、お許し願いたい。

話を戻す。僕は「絶対的幸福論」は「男性が女性を一方的に幸せにする」という保守的な男女観に立っていないところがすばらしいと書いてきた。

ここを結論としてもいいのだが、それだけでは僕の言いたいことが片手落ちになってしまう。

つまり、そういったリベラルで新しい関係性を、水樹奈々が歌うことに大きな意義があるといいたいのだ。

どういうことだろうか。
ここで若干の回り道をしてみたい。

突然だが、「シンデレラ・コンプレックス」という言葉をご存じだろうか。

おいおい、いきなりシンデレラの話かよ、と思われるかもしれない。きちんと「絶対的幸福論」の話に戻ってくるので、我慢して付き合ってくれるとうれしい。

「シンデレラ・コンプレックス」といっても、ぴんと来ないかもしれない。
ここは大胆に意訳して、「シンデレラ願望」とすると、言葉の意味するところがよりクリアになるだろうか。


デジタル大辞泉より
シンデレラ‐コンプレックス(Cinderella complex)
自立できない女性が、シンデレラのように、理想の男性が現れて幸福にしてくれるのを待つ心理。

なかなか手厳しい表現だ。

シンデレラは継母とその娘たちにいじめられていた。
ある日、お城で舞踏会があったが連れて行ってもらえず、屋敷でひとり留守番していた。

舞踏会に行きたいと願うシンデレラ。
そんな彼女の前に魔法使いが現れ、純白のドレスを魔法でプレゼントする。シンデレラはおなじく魔法によってつくられたかぼちゃの馬車に乗り、舞踏会に出席することに。
しかし、彼女を着飾った魔法は、24時の鐘とともに解けてしまうという。

舞踏会で王子に見初められるシンデレラだが、24時の鐘が鳴り、やむなくお城から去る。

王子はシンデレラが残したガラスの靴を手がかりに、街で彼女を探す。
継母の娘たちは、ガラスの靴を履こうとするが、サイズが合わずに失敗。

王子は屋敷にいるボロ切れを着たシンデレラにもガラスの靴を履くように勧める。
靴を履くシンデレラ。サイズはぴったり。驚く王子。

こうして王子とシンデレラは結ばれたのでした。
めでたし、めでたし。

長々とシンデレラのストーリーを説明したのにはわけがある。
この物語を読んだ現代の読者ならば、こう思うだろう。

え、シンデレラなんもしてなくね?

シンデレラは徹底的に受け身の存在である。
自分の手でやったことといえば、舞踏会に行きたいと願っただけにすぎない。

その願いすら親切な魔法使いが叶えてやっている。ここでもシンデレラは、自分では努力をしない。

そして、舞踏会でたまたま王子に見初められ、たまたま王子がシンデレラを探しに来たので、たまたま幸せになれたにすぎない。

そう、シンデレラの物語において、彼女自身の努力はいっさい介在しないのだ。
それほどシンデレラは、他者依存的な存在なのだ。

しかし、あくまで、シンデレラはフィクション。
白馬の王子様が私を迎えに来てくれる、と望むのは自由だ。

「白雪姫」にしたって、「眠れる森の美女」にしたって、王子様が姫を迎えに来るというストーリーラインは共通している。
それがいつの時代までかは女の子の憧れだったと表現しても、いいすぎではないだろう。

しかし、そういった物語をあまりに自明なものとして受け入れすぎた女性は、いつからかそういった男性(王子様)に頼る思考を内面化してしまう。

そのことが女性の社会進出の遅れに一定の影響を与えてきたことは否定できない。

それをフェミニズムの文脈で、批判的に分析した概念が「シンデレラ・コンプレックス」である。

ということで、いま我々は「シンデレラ・コンプレックス」という、分析のツールを手にした。
これを水樹奈々がいる日本の音楽産業に当てはめてみる。

すると、気づくだろう。
水樹奈々が自身のルーツとする、昭和の演歌や歌謡曲には濃厚な「シンデレラ・コンプレックス」の持ち主――つまり、「待つ女」が溢れていることに。

男性の2歩後ろを歩くことを美徳とする女性。
男性からの裏切りに対してひたすら耐え忍ぶ女性。

そういった女性像を昭和歌謡、演歌のなかに見つけ出すことは容易い。
ここでは、それを「日本型シンデレラ・コンプレックス」と名づけてみよう。

水樹奈々もその世界に幼いころから親しんできた。ファンには有名な話だが、彼女は幼少期から演歌歌手を目指すため、父親から英才教育を受けていたのだ。
水樹奈々のインタビューには、「男らしさ」「女らしさ」といったフレーズが頻出する。
それは彼女が幼いころから聴いてきた歌とは無縁ではない。

現在の水樹奈々は主にアニメソングを歌っているが、彼女の歌詞には「女の子っぽさ」を無批判に表現したものが多い。
そこに昭和歌謡的なものの残滓を見出すことは簡単だ。

いちおう補足しておくと、水樹奈々が政治的に保守であるといいたいわけではない。
ただちょっと、男女観が古風なだけなのだと思う。

さて。

ここでようやく「絶対的幸福論」へと話が戻ってくる。

僕は水樹奈々は「日本型シンデレラ・コンプレックス」の持ち主であると指摘した。

もはや、賢明な水樹奈々ファンの読者のみなさまなら、気づいたことだろう。

そう、「絶対的幸福論」は、「日本型シンデレラ・コンプレックス」とは真逆の世界観に立っていることに。

男が守り、女が守られるのではなく、お互いをサポートしあう間柄に。
男の2歩後ろを女が歩くのではなく、「君とずっとずっと歩いていたいから」と隣に並んで歩んでいく間柄に。

男らしさ、女らしさから解放された男女の真に平等な関係性を、水樹奈々は情感たっぷりに歌い上げる。まるで、演歌か歌謡曲のように。

ここに僕は、大いなる価値の転倒を見出し、とてつもなくいい曲だと思ったのだ。

そうやって、相互扶助的な男女の関係性を歌い続けてきた果てに、曲のラストにようやく、「愛してる」というフレーズが登場する。

心が痛くなるほど
愛してる
愛してる
愛してる

祈りを込めるかのように痛切に3度も「愛してる」はくり返される。

それはゆっくりと丁寧に関係性を紡いできた男女が、ようやく絞り出した言葉に聞こえる。

「愛してる」という言葉は、それくらい重たく、なかなかたどり着くことのできないゴールなのだ。

簡単に「愛してる」などとはいってはいけないのだ。

そのゴールにたどり着いたふたりの愛は決して揺らぐことなく、「絶対的」なものであるはずだ。

しかも、それは「好き」「嫌い」という概念を超越したもっと普遍的な「幸福」の形である。そんなメッセージが込められているように思うのだ。

その言葉を聞き、僕はまるで長編小説を読み切ったあとのような満足感に包まれるのだ。

すばらしい名曲だと思います。

(補足)
「絶対的幸福論」の作詞作曲を担当したphatmans after schoolのヨシダタクミは、自身のYouTubeアカウントで本曲のセルフカバーをアップしている。

すばらしいカバーなのでぜひ聴いてみてほしい。動画はこちらから。

ここでヨシダタクミはあるひとつのフレーズを改変している。
まずは水樹奈々が歌う元のフレーズを見てみよう。

(水樹奈々Ver)
だから
かっこよくなりたい
やさしくなりたい
ずっとそばにいたい
いつまでも君のそばにいたいよ

男性から女性への愛をシンプルな言葉に歌っていることがわかるだろう。
つづいておなじフレーズをヨシダタクミはどう歌っているのか。

(ヨシダタクミVer)
だから
かっこ悪くてもいい 
お金持ちじゃなくていい
誰に笑われても
いつまでも君のそばにいたいよ

おわかりだろうか。

曲の視点が男性から女性へと変更されていることに。

「絶対的幸福論」は男性から女性へのたゆまぬ愛を歌い上げた楽曲である。
ヨシダバージョンも当たり前だが、それを踏襲していた。

しかし、クライマックスに来て、ヨシダは突如、視点を男性から女性へと移動させた。

それにより、さんざん分析してきた「絶対的幸福論」の相互扶助性を強化してみせたのだ。男性だけではなく、女性もおなじ気持ちである、と。

それは、良質なミステリ小説を読んだときのような衝撃を与えてくれる。

視点の操作によるサプライズの演出。ピンと来る読者もいるかもしれない。これは完全にミステリ小説のやり口だ。

しかも、おもしろいのは「男性」視点を「女性」である水樹奈々が歌い、「女性」視点を「男性」のヨシダタクミが歌っている!

この奇妙なパラドックスも、曲の世界観をかえって強固にしているように思う。

おそるべし、ヨシダタクミ。

(終わり)


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