迷人伝 その9
平穏な時間が緩やかに流れていき、早くも三年近い年月が流れ去っていった。
三年という時間には、何かしらの魔力が備わっている。三年あればどんなこともできそうに思えるし、新しい自分に生まれ変われそうな錯覚を起こさせる。実際には何も成し遂げられずに過ぎ去っていくことが多いのだが、紀昌は例外だった。この三年間で紀昌が体得した能力は、まさに目を見張るほどだったのである。
紀昌はふと夜空を眺めた。高校三年生になっていた紀昌は、いつものにように自室で修業に励んでいた。何らかのお告げだったのかわからないが、ざわついた胸騒ぎを感じた紀昌は、珍しくカーテンと窓を開けたのである。
外の空気はすっかり冬のものになっていた。一二月になったばかりではあったが、夜はもう立派な冬である。冷たい空気が紀昌の頬を何食わぬ顔で吹き抜けていく。紀昌は夜空を見上げて驚愕した。
なんと空には大きな光の玉が何十個もあるではないか。まるで月が細胞分裂したかのように、あちこちに月のような大きく丸く光る物体が我が物顔で鎮座していたのである。
「いつの間に月が増産したんや」
あまりにも驚いたため、しばらくの間紀昌は放心状態のまま夜空を眺めていた。すると、今度は大きな火の玉が東の空から落ちてきた。
「あ、危ない!」
思わず紀昌は叫んでしまった。大きな惑星が地球にぶつかってしまうと思い込んだのである。このままでは地球が大爆発してしまう。胸騒ぎの原因は、この地球滅亡の瞬間だったのかと紀昌は思った。
ところが、地球に落ちたはずの惑星は、すっと消えてなくなった。その段になって、ようやくそれが流れ星だったことに気づく。月のように見えたのは、星々だったことも同時に悟る。すべてが巨大に見えたのは、自分の目のせいだったのだと遅ればせながら合点した。
紀昌は「占めた!」と膝を打った。真夜中であるにも関わらず、紀昌は玄関から飛び出して表に出た。紀昌は自分の目を疑った。実際に行ったことはないが、電信柱は東京スカイツリーのように、民家は六本木ヒルズにように見えたのだ。紀昌は近くのコンビニまで歩いていき、そこで人を見た。おそらく普通の身長くらいである人は、五メートルほどもある巨人のように見えた。すべてのものが何倍にも大きく見えたのである。
ついに、紀昌は小を見て大の如く見えるようになった。第二の修業を終える時が迫っていたのだ。問題は、どのような試験を課せば、その修業の合否を判定できるかである。
「普通の試験ではおもろないし、いっちょ大きな試験に挑戦したろうか」
そう考えた紀昌は、まず大学センター試験に願書を出すことにした。なんと紀昌は東京大学の入学試験にチャレンジすることにしたのである。
ただ、このことは学校にも親にも内緒である。さすがに受験費用が必要なので、親にだけは大学を受験したい旨を伝えた。正直なところ、両親は自分の息子が大学に行くなど考えてもいなかった。それもこれも紀昌の成績が最悪だったからだ。バカ高校の中でも、紀昌の成績は常に最下層だったのである。退学にならずに卒業できそうなだけでも奇跡的なことだった。
いつも部屋に籠っているけれど、勉強しているところなど見たことも聞いたこともない。そんな紀昌が大学に行きたいと言い出したのだから、母親は俄に信じられなかった。男であるはずの息子が、突然「俺は実は女なんだ」と言い出したようなものである。受験料で何かを買うのかもしれない。もしくは遊び代に変わってしまうかもしれない。
そう疑ったわけであるが、もし本当に大学に行こうと考えているのならば、それは手放しに喜んでもいい。たとえ浪人してでも、それが五流大学でも、自分の息子には大学に行ってほしいものである。微かな期待を抱いて、母親は受験料にプラスして少し多めの軍資金を紀昌に手渡した。
もちろん「どこの大学を受けるの?」と聞いてみたけれど、紀昌は「その辺の適当な大学」としか答えない。まさか東京大学を受けようとは母親は夢にも思わなかった。
紀昌がこれまでの修業で見せた集中力を発揮すれば、学力もめきめきと上達するかもしれない。しかし、東京大学の合格を目標にした紀昌は、教科書すら開こうとしなかった。過去問を手に入れることもしなければ、何の科目があるのかも調べなかった。ただ、これまでの修業を基本に、より遠くのものを見る修業をしていただけである。
結果を言えば、紀昌の大学入試センター試験は満点だった。もちろん自己採点ではあるが、翌日の新聞に掲載された解答を何度見比べてみても、間違いが一つも見当たらなかった。
なぜ紀昌は満点を取れたのか。理由はいたって簡単である。紀昌は他の受験生の答案用紙を盗み見たのである。小さなものを大きく見えるようになった紀昌にとって、人の答案用紙をカンニングするなど、朝飯前だったのだ。しかも紀昌は、誰か一人の答案用紙を盗み見たのではなく、自分よりも前に座っている人すべての答案用紙を盗み見た。その中で最も多い解答を順々にマークしていったのである。
それでも紀昌は満点を取れるとは思っていなかった。ちょっと出来過ぎな感もあったが、これで東京大学に願書を提出できると安堵した。センター試験はいわば肩慣らしのようなものである。本番は東京大学の入試なのだ。
紀昌は、母親に東京の大学を受験することを告げた。母親はなぜ遠く離れた大学を受験するのか訝しく思ったが、大学に入れるのならばどこでも良かった。それに、本人が生まれた場所とは別の街で再起を図ろうとしているのなら、それを邪魔する権利はないだろう。もっと本音を言えば、自宅から出て行ってもらったほうが、安心できるとすら思っていたのだ。自分の息子とは言え、何を考えているのかさっぱりわからない紀昌は、母親のストレスの大元になっていたのである。その息子が独立した生計を立ててくれるのは、母親にとって願ったり叶ったりだった。
母親にとって、国公立の試験がいつ行われるかなど知る由もなかった。当然のことながら、センター試験がいつ行われたのかも知らない。まして自分の息子が満点を取ったことなど微塵にも思わなかった。
自分の息子が東京大学を受験したことを知るのは、東京大学と書かれた封筒が自宅に送られてきた時だった。最初、母親は何がなんだかわからなかった。分厚い封筒だったのだが、それが何か想像もつかなかった。
母親は紀昌の確認も取らず、その封筒の中身を見た。そこには息子が東京大学の理科Ⅲ類に合格した旨が書かれていた。それでも母親は信じられなかった。それもそのはずだ。バカ高校の最下層である息子が、天下の東京大学に合格したなど、簡単に信用できるはずがない。何か間違いでも起こっているに違いない。
母親はすぐに自室に籠っている紀昌のもとに駆け寄った。
「ちょ、ちょっと紀昌! 東京大学から合格通知とかいうのが届いてるんやけど」
「あっそ」
「理科Ⅲ類に合格したって書いてあるんやけど、これって何かの間違いやんね?」
「あ、合格したんや」
「え? 本当に合格したん? あの東京大学に?」
「そうなんとちゃう。そう書いてあるんなら」
「え、え〜〜! ホンマにホンマ? え〜〜!」
その段になって、ようやく自分の息子が東京大学に合格したことを知り、母親は真夏の蝉のように狂喜乱舞した。急いで父親に電話をかけた母親の声は、何を言っているのか要領を得ないくらいの混乱と興奮が交錯していた。一方の紀昌は、特に何も感じなかった。
「意外に簡単だったな」
それが紀昌の率直な感想である。日本で一番難しいと言われている東京大学理科Ⅲ類に、余裕で合格することができた。試験の出来はよくわからなかったが、なんとなく合格したであろうことは察していた。その勝因は受験の時の席にあった。紀昌は運良く一番後ろの席だったのだ。これなら教室内のほとんどすべての受験生の答案用紙が丸見えである。もし一番前だったら完全にお手上げだった。そういう意味では天も紀昌に味方したわけだ。
紀昌にとって、東京大学に合格したことよりも、一番後ろの席から一番前の席に座った受験生の答案用紙がくっきりと見えたことのほうが感動的だった。あの広い試験会場で、米粒よりも小さな文字を識別できたのだ。それだけでも第二の修業に対する試験は合格と言ってもよかった。もはや大学の試験に合格したかどうかは、紀昌にはどうでもいいことだったのである。
その晩、中島家には幸せな時間が流れていた。母親が腕を奮ってご馳走を用意してくれたのだ。この日ばかりは早々に帰宅した父親は、紀昌に賞賛の言葉を浴びせ続けた。自室に籠っていた息子が、実は一生懸命に受験勉強をしていたのだと両親には捉えられたのである。お荷物でしかなかった息子が、一瞬で自慢の息子に変貌したのだ。結果が変われば、過去のこともすり替えられることを紀昌は学んだ。
正直に言えば、紀昌は東京大学に行くつもりはなかった。紀昌にとって日本で一番難しい試験に挑戦することが目的であって、東京大学に入学することに意味を見出せなかったからだ。しかし、両親の尋常ない喜びようもあり、それに流される形で東京に行くことが決定されてしまった。修業はどこでもできるし、親元から離れて一人で生活すれば、より集中できる場ができる。しかも少なからず生活費を工面してくれると言う。それは、紀昌にとっても喜ばしいことである。
紀昌の快挙は学校中の話題になった。学校が創設されて以来、はじめての東京大学合格者になったのだ。教師たちは誰も信じられなかった。「何か悪いことでもしたのではないか」「賄賂でも送ったのではないか」と噂し合ったが、なにわともあれ東京大学である。それは学校の名誉に他ならない。
たとえ不正があったとしても、それが露呈しなければ、学校にとってプラスになる。もし不正があったならば、それは紀昌本人の問題であって、学校側には何の責任もないだろう。そういう思惑もあって、誰も深く紀昌の合格の真意を確かめることはしなかった。仮に本人に確かめたところで、紀昌は何も答えなかっただろうし、カンニングをした証拠は何一つないのである。
同級生たちのほうが、より疑いの目を向けていた。超が付くほどのバカである紀昌が正当に大学に入ったなど信じられるはずがない。ましてや天下の東京大学に入れるなんて、トランプゲームの大富豪で言う“革命”でも起きなければありえない。現実社会で、そんな大革命が起こりうるはずがないのは自明である。彼らは「あの鋭い目で教官を脅したに違いない」「なんて卑劣なやつなんだ」と、陰で紀昌のことを罵っていた。
しかし、紀昌にとってそんなことはどうでもいい。重要なのは、小を見て大の如く見えるようになったという事実だけだ。何を言われても、その事実だけがあれば、自分の存在意義が揺らぐことは決してなかった。
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