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【掌編】いちばん売れた家庭用金庫

 空き巣は、泥棒に入った時の作法を決めている。まずは、その家の玄関で、深呼吸をする。臭いを嗅ぐのだ。生活は臭いに表われる。とりわけ、招かれざる客が来た時にこそ、住人はなまの存在を浮かび上がらせる。
 大らかか、細かいか。理性か、多感か。排他か、融和か。自尊か、高慢か。
 暗算の世界大会で達人は、和すべき膨大な数々を、脳内で、棲み慣れた家の中に置いていくと言う。17846は、玄関の犬と子供の焼き物の横。47948は、青い傘の青い房飾り。89898は、クロゼットの奥底に忘れられているコートの右ポケット。そして、最後の最後に屋根の上から、すべての数字の糸を手繰り寄せ、一本の綱を編み、答えにするのだと言う。
 その要領で、泥棒は仕事を始める。頭の中に十文字を引き、家の中から取り出した情報を、脳内の分析図に一つずつ置いていく。手垢のない鏡、あちこちにあるボールペン、脱ぎ捨てた上着、アイロンがかかったハンカチ、点いている電気、靴の爪先の向く先、使いかけの瓶の数。
 どの家も、生活の思考回路というものは、そう変わらない。刑事ドラマでこれ見よがしに荷物を散らかすが、なぜ、労力をかけて、布や紙を放り投げなくてはいけないのか。人間の心の隠し場所を探るのだ。ベタな場所ほどいい。親しみやすくて、心が安らぐ場所に、人はモノを隠すのだ。ベタで捻りがない、それがいい。自分のように捻くれ、よじれ、からまりきった人間が、世の中にたくさん居ては、商売がやりにくい。
 絵の裏、本棚の奥、冷蔵庫の奥、台所の流しの下、縫いぐるみの中。いつものように、人間がほっと寛げる、他人の眼差しを遮る場所を探していくと、すぐに金庫が見つかった。旧式の文字盤型なら、鍵を開けるのは簡単だ。そう思い、流れるような動作で、文字盤に手を掛け、動きが止まった。
 う な か わ ど
 の め り た う
 か に こ し し
 # あ ん ば て
 空き巣は、目を瞑って、天を仰ぎ、しばし沈黙した。背骨の奥に凍らせてしまってあるドライアイスのような記憶から煙のように声が立ち上がってくる。どうして、私ばかり、こんな目に、遭うのか。
 空き巣は、油性ペンを探して、文字盤を黒く塗りつぶすと、その家から出て行った。盗られたものは何もなかった。
 金庫は、盗みに入られても盗まれない金庫として評判を呼び、多くの空き巣が見慣れるまでは、よく売れた。

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