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教養と空想

先週の土曜日、石井洋二郎先生の最終講義ということで、母校駒場へ行ってきました。

石井先生は、教養学部長をされていた時の卒業式での式辞が少し前に話題になったこともあり、お名前を憶えている方も少なくないかと思います。

(リンク先の先生の式辞は、虚偽の情報に惑わされることなく一次情報を当たれ、という内容で、今のPost-Truthを巡る状況に早期から警鐘を鳴らしていたという意味で、さすがの石井先生のご慧眼には驚くばかりです・・・)

最終講義自体は、先生ご自身の研究史の振り返りを通じ、さまざまなテーマに触れるものだったのですが、今日はその中でも最も印象に残った、「教養と空想」というお話について、少し書きたいと思います。

(以下は、石井先生の話されたことだけではなく、私の勝手な解釈も一部含まれてしまっていますが、ご容赦ください)

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石井先生はフランス文学研究(主な研究対象はロートレアモン)の傍ら、シャルル・フーリエの研究をされていました。

フーリエと言えば、マルクス、エンゲルスから「空想的社会主義者」として、エンゲルスの『空想から科学へ』ではそのユートピア論が批判の矛先となった思想家・実践家です。

同世代の思想家や科学者からの評価は低かったフーリエですが、20世紀に入り、ロラン・バルトやヴァルター・ベンヤミンといった思想家からその「空想の力」について、とても高い評価を受けるようになります。

私が興味深いと思った一例をここに挙げますが、当時フーリエは、「地球にはやがて大規模な『北極冠』なるものが現れて、寒冷地方にも温暖な気候がもたらされる」と「空想」しています。

現在の地球温暖化の議論に奇しくも重なる、面白い議論だと思います。

いずれにせよバルトやベンヤミンは(そして石井先生も、ですが)「現実に囚われずに、自由に理想を描いた存在」として、フーリエを再評価したのでした。

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一方で「教養」についてですが、石井先生は、「教養=Liberal Arts」とは、Liberateする(自由にする)Arts(技術)であり、人間が持つ様々な限界(既存のしがらみや固定観念、古くからの秩序)からひとびとを解き放つものである、と定義します。

そして、石井先生に言わせれば、意図したかどうかは別として、フーリエは真の意味でLiberal Artsを実践した存在であった、と仰っていました。

石井先生の著書から、以下を引用します。

人間の進歩を可能にするのは、冷静で客観的な「科学」だけではない。それと同時並行的に、ともすると不合理な偏見や無謀な逸脱へと横滑りし、時には狂気と境を接するに至るかもしれない「空想」へのやみがたい憧憬がなければ、世界は耐えがたいまでに退屈で平板なものになってしまうだろう。ユートピアとはもとより実現不可能だからこそユートピアなのであり、そのことを知りながらあえて不可能なものに賭けるという愚かしい過ちを犯すことは、おそらく人間だけに許された特権である。
私たちは思考の軸を180度回転させ、「空想から科学へ」から「科学から空想へ」と、歴史のヴェクトルを逆転させてみる必要があるのではないか?

石井洋二郎『科学から空想へ』藤原書店

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空想する力、あえて実現不可能だと思われる理想を描く力は、それこそ「教養」の力である。

そのように最終講義で石井先生がおっしゃった際、僕自身は、自分が教養学部を卒業してからの社会とのかかわり方、働き方、日々の過ごし方を振り返らざるを得ませんでした。

果たして自分は、石井先生がおっしゃったような、理想を描くこと(その努力)を十分にしてきただろうか。「教養」の力を発揮してきただろうか。空想をしてきただろうか、と。

大学卒業後、コンサルティング会社で働いたぼくは、まさに「科学」側の仕事をしてきたのだと思います。

業界を分析する、市場のデータを集める、、、コンサルティング会社の仕事はいわゆる「科学的なアプローチ」であり、もちろん、それ自体が否定されるものではないとは思っています。

(石井先生も世の言説を鵜吞みにせず、一次情報にあたり真実を見極めることも「教養」の力だと、上で紹介した卒業式の式辞で述べられています)

それでも、「空想する(という努力)」ということを、自分は大学卒業以来しっかりとやってきたかと言われれば、恥ずかしながら自信をもってイエスと答えることはできません。

社会の中で、日々の生活にいっぱいいっぱいになる中で(限界に囚われる中で)、いつの間にか大学時代に大切にしてきたことを忘れてしまっていたのではないかと、強く反省した次第です。

地に足をつけつつも、しっかりと未来を夢想していける、そんな人間になっていきたい―そう強く思いなおすことができた、石井先生の最終講義でした。

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ちなみにですが、実はぼく自身は石井先生のゼミ生でもなんでもありません。石井先生には、語学の講義(サルトルの輪読)でお世話になった程度です。

ただぼく自身、学部時代に政治思想史をかじる中で、石井先生の論稿『思想としての開発』(『岩波講座 開発と文化2 歴史の中の開発』所収)には、とても影響を受けました。ご関心のある方は、ぜひ目を通してみてください。

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