島凪さん

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記事

全てが例外なく必ず何処かへと向かいます、と宇多田ヒカルは唄う

12月30日。
前触れもなく雨が静かに降りだし、断りもなく止んだ。
所在なげに雑巾を折ったり畳んだりしていた娘が、椅子を軽く蹴って庭に出ていく。短く切り揃えたせいで無防備になった首が一瞬、湖から飛び立つときの白鳥のように光る。
1年の果て、鉛色の空。彼女が唯一、紫外線を恐れず庭を歩けるとき。

南向きの窓は、砂丘の風紋を思わせる汚れの線を描いている。
庭を背にして、雑巾をジグザグに動かしその跡を消

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解き放ち得ぬものたち

はじめ、それは今まで経験したことのない重さで私の腰を砕き、背中を軋ませ、両腕をもぎ取ろうとした。だから私は、それを闇に向かって押し込み、ドアを閉めて、鍵をかけたのだった。

ずっと開けなかった。錆びついたドアノブを見詰め、その奥にあるものを想像しそうになると、目を瞑り、背を向けて遠ざかり、心の扉もことさら固く、念入りに閉めた。
そうして、間もなく6年になる。

もとより折り合いの悪かった夫の兄夫婦

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実用性の乏しい、座り心地の悪い椅子

多くの像を目にし、たくさんの声を耳にしたあとは、できるかぎり長く目を瞑っていたい。

必要なのは眠りではなく、閉じること。光から離れ、音を遮断して、鎮静すること。見たもの、聞いたことを、沈殿させること。
見詰めないこと。触れてみたくなるから。触れたら握り潰してしまうかもしれないから。
ペンを持たないこと。嘘を書いてしまうから。なにかを言葉にするには時が必要だから。

深夜、窓をわずかに開けて、灯り

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なぜ読むか (一回休み)、どうして書くか (また休み)

体調が回復を兆すと、縮こまっていた手が本に延びる。塞がっていた喉が珈琲の通過を許す。ページをめくる指の動きが滑らかになり、芳ばしい液体が胃を静かに満たすころ、〈もう大丈夫〉という言葉が、湖上を渡る風のように心を過る。でも、それはただ過るだけで、決して腰を落ち着けようとはしない ─ なぜなら、それは吹き抜ける定めの風だから。

土曜日、20時。
溜まっていた家事の裾野をわずかに削りとり、読書会会場に

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大切にされなかったという記憶、大切にされたかったという記録

口のなかに小さな感情がある。

形状は路傍に転がる小石のようで、大きさの割には重い。色は分からない。
眠るときも話すときも食べるときもそれはあるので、何年も飲み込もう、吐き出そうとしてきたのに、その努力が報われることはなかった。飲み込むには鋭利で堅すぎるし、吐き出すには力が足りなかったのかもしれない。
それはあらゆる作用を拒む何かだ。舌先で転がしても唾液に角を丸めることはなく、飲み込んだところで胃

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取り戻すために失う

高層階の病室に、音のない雨が降る。
私はそれを知らない。雨が降っていることも、私から音が奪われていることも。
面会時間が始まると同時に、濃い斑模様を付けたコートの裾を翻し、雨の匂いを運んでくる人が降る雨を伝える。湿度に髪を膨らませ、微かに睫毛を光らせ、雨が降っていることを、その雨には音があることを。

─雨。真剣にざあざあ降ってるよ。

私は視線を娘の瞳から窓に移し、窓の外を見詰める。はぐれた雨粒

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瞼を閉じれば満ちてくる色

彼女の生まれた病院から家に帰る日、壊れそうな身体に迸るような命を謐かに湛えている小さな娘を、リボンこそかけないものの大切な贈り物のように空色のガーゼケットに包み、病院前の車寄せに走り込んできた白いタクシーに乗り込んだ。

その数日間でいっそう秋を深めた世界は眩い金色に輝き、風に拐われた銀杏の葉が舞い降りながら街行く人びとを浸す。
眠る娘を起こさぬよう私は身動ぎすることを耐えるが、目はフロントガラス

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手離したものを二度手離す前に

むかし、この家には藤棚があった。

3本の藤の木が織り成す幾何学模様の藤棚の下で、祖母と向かい合ってするままごとのお碗に、揺れる藤の葉に濾されたレース模様の陽が降り注ぐ。
祖母はそっとお椀の中の陽をすすり、小さなお母さんの私に三つ指をついて、ご馳走さま、と頭を下げる。早春の雪道のような色合いの髪に、うす紫の花びらが蝶のように留まる。

あの藤の木が1本になったのはいつだったのだろう。私がままごとに

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損なわれたものを埋めるための作業

毎日おなじ時間、同じ河川敷近くの信号で、大きな弧を描く背中の男性がショッピングカートにすがるようにして立つ傍ら、腰の曲がった女性が重さのない仏像のように立っている。
驚かせないよう慎重にブレーキをかけ、二人の後ろの空間に自転車をそっと滑り込ませるのだが、女性はすかさず脇に退き、ごめんなさいねお邪魔しちゃって、と言いつつ、表情の絶えた男性を庇うようにして少し動かす。
良し悪しの判断を待たずに謝罪が口

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そばだてる耳に向かい呼びかける声

連休目前にして体調を崩した私の周りで、色も匂いも薄い、希釈しすぎたような時間が流れていく。

娘のことになると俄に焦燥しても、自分のこととなると忽ち諦観する。悪くなってきたな、と呟くと、どうしようもないね、と木霊が還ってくる。抗わないの?とけしかけてくれるお節介な私は、とうの昔に再発を繰り返す私を見限り、きれいに荷物をまとめて出ていった。

正午の針が重なるとベッドから起き上がり、針が直角になると

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