ものの試しに

最近何も書いていなかったので試しに何か書いてみる。

他にものをかく場所が欲しい。もうどの名前が両親に知られているのかさっぱり忘れてしまった。ゼロから作り直したい。

人生これからどうしようかなって感じだ。とにかく幸福になって苦痛を減らして、本を読んで、知識とか知恵をつけて、なんだ、どうすればいいんだろう。長期的な投資をしたい。僕が死ぬまでの間だけじゃなく、死んだ後も役に立つような。それから他人に優しくなりたい。どうすれば人のために何かしてやりたいと思えるんだろうか。僕にはそういう気持ちが昔から欠けている。なぜなんだろうか。人を自分の仲間だとなかなか思えない。やはり家庭での過ごし方があれだったんだろうか。人に愛されたという経験を持っていたい。幼少期の記憶の欠落はもう後から補えないはずなんだけど、僕は何度か人に愛された覚えがある。たぶん。だいぶ背が伸びてから、友達からだったり、顔も知らない大人にだったり、こまごまとしたところで、それは僕だからというより、その人が大抵誰にでも振りまいている善性のおかげなんだろうけど、それでも優しさとか愛とかの手本になるようなものを何度か体験んしたことがある気がする。ただこういうのってやろうと思って覚えるものじゃなくないか。自然となるものでしょう。その前に何か大きな欠けたものがあって、そこをクリアすればこの問題も、愛し方がわからないという問題も一緒に解決できるんだろうという気がする。「アイデアとは複数の問題を一挙に解決するものである」という言葉があるが、複数の問題が散らばっていたら共通の原因が存在する可能性が高い、というふうに理解している。個別に対症療法的に解決していくより共通の原因があればそこを解決したほうが早いし単純なので後々良いし応用も効きやすい。

言語化するといつも何かを取りこぼす。思い出す、人間の意識の裏にはその20倍もの無意識があって、言語化されないまま眠っているのだ。それは確かに常に存在する。抑圧しても、見ないふりをしても、コントロールしようとしても、無駄である。自分の知らない自分が誰の裏にも眠っていて、そっちが自分をコントロールしているのである。本能には逆らいようがない。意識的にできるのはほんのちょっと軌道修正するくらいである。

文章の書き方もそうあるべきだろうと思う。意識的に考えて書くんじゃなく、無意識的に考えているものをなるべく反映できるように書く方が良いと思う。つまり正直に話すということである。思っていることをなるべく正確に伝えるということである。社会ではどうも自分をコントロールすることが求められる。そこで失われるものとのバランスを取るために芸術が存在するんだと思う。芸術の技術とは無意識をいかにすらりと伝えるかであって、書く内容とか主題とかは全然無意識的に心が決めてしまっている。それでずいぶん時間が経ってから、作品がどういう役割を果たしたかが明らかになって役目を終えてから、ようやく名前がついたりして意識的に理解されるのである。芸術は生きている最中は何とも呼ばれない。適当に新世代とか新しいやつとか現代のとか令和のとか呼ばれる。最初から名前を呼ばれたいがために作った芸術がだいたい失敗するのもこんな理由による。それは上手いと褒められるかもしれないが大して役には立たない。

芸術は役に立たなくても良いのだと言う人がいるが、実は役に立っているものだと思う。人間がものを考えたり感じたりするときに読んだものや書いたものがいつも参考になるだろう。どう考えたって役に立っているのである。ただその形が金でないというだけだ。

何か書くなら無料で書きたいなと思う。僕はできればお金をもらいたいが金のために書くものが制限されるのではちょっとどうなんだろうかなと思う。芸術に価値を認めて金を払うというのはあまりにも高度な行為である。非常に長期的な利益のために短期的な損をするということであるからけっこう難しい。のでできたら無料で読めるようにしたいなと思う。では僕はどうやって稼ぐのか? 副業をするか。どうせ時間があっても芸術は対して進まない。むしろ世間の人と同じ空気感で生きることが大事なのではないかと思ったりする。文脈を共通するという感じ。同じ生活をしていれば何も考えなくてもある程度の共感が発生するし同じ問題を抱えることができる。僕は大衆のために尽くそうとしているのだろうか。なぜだろう。昔からそうしようという気分があった。なんでだろう。

芸術論みたいになってしまった。

ゲームのキャラ選びもしっくりきてないのに仕事を選ぶなんて難しすぎないか。無意識的にできることが良い。何も考えなくてもやる気が出てやっていける作業が良いな。調べものが苦でないというだけの理由でプログラマーとかどうかなと思ったりしているが。

接客業をしているといろんな人を見る。やべー奴からまともな人から僕より頭が良さそうな人も来る。世間は全然わからない。ここに来てない人もいっぱいいるんだろう。怒る人もいるし謝る人もいる。

疲れたな。体力がない。知らないうちにじわじわ消耗していそうだ。

結局意識的に動かせることなんて生活のうちの数%でしかないのだ。僕の心は放っておいてもやりたいほうへガンガン進んでいってしまう。わずかな意識をどこに割くかというのもそもそも難しいものである。ゲームをやっているときは、プレイは無意識に任せて意識は動きの改善とかフィードバック的なことに使ったほうが良いなと思った。意識的に試合をすると改善点が全然見えてこない。無意識ではできないもののうちなるべく効果の大きいことをやろう。なるほどな。これは良い思いつきかもしれない。放っておいてもできないようなことを意識してやる。例えば早い時間に寝るというのは困難なことである。昔は陽が落ちたが今はいつまでも部屋が明るいし起きているぶんだけできることがある。意識的にできるのは、時間が遅くなったら電気を消してパソコンの電源を落とすということである。別に寝ようとは思わなくていい。そこまでやれば後は勝手に眠くなるからである。


意識的な努力なんて無駄だと思っていたが、そうでもないなと思い始めた。意識をどこに割くかというのは難しいことである。


20分で2000字くらい書けた。満足だ。内容はどうだろう。今まで考えていたことを書いただけだから、と思うがむしろこういう書き方の方が濃くなる気がする。そして誠実になる気がする。キーボードの前で一から意識的に組み上げたものにはなんか深みがない。言葉の上でだけ成り立っていて、無意識的な美学のフィルターを通っていないと本当に見えているとこにしか価値がない。文章を読み書きするというのは無意識から無意識へバトンを渡す行為なのである。目を騙したって心に響かないと意味がないのだ。なんか怪しい評論みたいになってきた。

眠る。

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