【戦国イクメン】真田昌幸は、幸村にとって毒親だったのか?
父昌幸の真田家生き残り戦略に振り回された息子たち
現代でも、子どもの将来を決めたがる親は多いと思われ、近年、増加傾向にある中学受験についても、ある調査によると、子ども自身が決めたのは23%程度となっています。
この23%も子ども自身で決めたかのように思っているだけで、親がそういう環境づくりをしていたとも考えられます。
戦国時代においては、「子どもの将来=御家の将来」でもあったので、当主である親・親戚が決めるのは当たり前でした。
なので、真田昌幸が、息子たちの進路を決めるのは、当然の事であり、それは親の義務でもあった。
昌幸は、豊臣秀吉の命を受けて、長男の信之を徳川家康の与力として真田家本家から独立させます。
また、次男の幸村は、織田家に人質として出された事を皮切りに、上杉家、豊臣家と転々とさせられ、最終的に秀吉の馬廻衆となります。
もしそのまま豊臣政権が長く続けばエリートコースになるはずでした。
こうして、昌幸が決めた進路のおかげで、関ヶ原の戦い後も、真田家は信之の系統で大名として存続することができました。
しかし、この進路によって、次男の幸村は、大阪の陣で戦死する道を選ぶことになります。
偉大な父のイメージの下で埋もれる幸村
昌幸は、天正壬午の乱で、織田家、上杉家、北条家、徳川家という大勢力の下を渡り歩き、時には敵対しながら、真田領を守り続けました。
そして、徳川家康を翻弄しながら、豊臣秀吉と誼を通じて、独立した大名としての地位を手に入れる事に成功します。
昌幸は、錚々たる戦国大名たちにも、一目置かれる存在感を示します。
しかし、有能すぎる父親が存在している事で、息子たち、特に幸村は、その才能を発揮する機会も限られてしまい、秀吉などの一部の人間は見抜いていたようですが、陰に埋もれてしまう事になります。
大阪の陣で、あれだけの才能をみせつけた幸村ですが、関ヶ原の戦い以前の記録が非常に少なく、他の大名の記録や手紙にも、その名前が出てきません。
一方、幸村の同級生たちは一人の大名として活躍しているものが多く、伊達政宗や立花宗茂、小早川秀包、有馬晴信、秋月種長など錚々たる顔ぶれです。
彼らは、早くに父を亡くしたり、隠居したりした事で、豊臣政権の出兵要請などに、いち大名として自軍を率いて出陣する立場になっていました。
秀吉の馬廻衆であった幸村は、文禄・慶長の役で渡海していく同級生たちを見送るしかなく、各地で戦功を挙げているのを、遠く日本で聞くしかできませんでした。
父の死で呪縛から解放された幸村
1600年に起きた関ヶ原の戦いで、徳川秀忠率いる東軍38,000を、たった2,000で守る上田城で足止めをして、評価を高め畏れられたのは、また父の昌幸の方でした。
徳川家康は、因縁のある昌幸を恐れ嫌い、和歌山県の九度山へ死ぬまで配流させました。
関ヶ原の戦いで父と行動を共にした事で、そのとばっちりを受けて、幸村も共に配流されました。
そして、昌幸の死後も、忘れ去られたかのようにとどめ置かれました。
そのころ、同じ状況であった立花宗茂は、同僚の大名や本多忠勝の推挙などで、家康の元で大名へと復帰していました。
大名として復帰が叶ったのは、宗茂が文禄・慶長の役でみせた活躍について、家康から高い評価を受けていたのが理由だと言われています。
逆に、幸村のイメージは、あくまで老獪な昌幸の次男というレベルだったと思われます。
しかし、幸村を評価しているものが一人いました。
それが、豊臣秀頼に仕えていた大野治長で、秀吉の馬廻衆時代のかつての同僚です。
幸村は、生まれて初めて、智将真田昌幸という呪縛から解放され、一人の武将として評価をされて誘いを受けました。
そして、それに報いるかのように豊臣家に殉じる事になります。
まとめ
戦国時代においては、子どもの生殺与奪の件は、親が握っているのが当たり前だったので、昌幸が毒親だったとか特別問題があった訳ではないと思います。
ただ、昌幸の真田家の独立という大義名分によって、幸村たちが振り回されて事は事実です。
幸村は、振り回された結果、豊臣家に殉じるか、九度山で朽ち果てるかという選択肢しか残されていませんでした。
現代でも、親は、子どもの将来のために環境づくりをしているつもりが、逆に子どもの選択肢を狭めているという事が多いように思います。
自分の希望や理想を押し付けていないかを冷静に省みる事が重要だと思います。
幸村が、自分の実力で勝ち取り、自分の力で判断し、昌幸への意趣返しをしたのは、大阪の冬の陣での活躍後に、徳川方から10万石の大名で誘いを受けたのを断った事です。
天正壬午の乱における老獪で、いつ裏切るか分からないという真田家のイメージを覆して、御恩に報いる忠義に厚い真田家というイメージを、徳川方としてのスタンスを崩さなかった兄の信之と二人で作り上げました。
結果として、大阪の陣で真田家の強さを広め、一方で大名家としても存続し、名も実も両獲りする事に成功したのは因果なものです。
これも昌幸の掌の上だとすると、ただただ恐ろしい話になります。
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