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怒り

「イカる」こと。

私は社会人になり、
社長秘書になり、
社会やコミュニティに荒波をたてないように、自分にも人にも怒らないようになりました。
そして、自分の言葉を失いました。

ある時、
自分の言葉で正直に生きたいと思いました。
だから自然と、
自分の言葉を話して生きる人との関わりが増えていきました。
そして、聞かれました。

「あなたの言葉で、話して聞かせて?」

私はその言葉が出てくると大変怖くて、
いつも自信がありませんでした。

正直に生きたい思っているのに、
いつの間にか他者の言葉によって自分はつくられていて、
正直な気持ちすらも、
その主語が誰にあるのか分からなくなってしまっていました。

そんなコミュニケーションも、
繰り返すうちに、
言葉にする練習をたくさんたくさんするうちに、
少しずつ自分らしき
自分が納得できる言葉になっていきました。


言葉にできないことが、
はじめはとても苦しかった。

そしてその時は、私に対して怒ることよりも、他者に対して不満を抱いたり怒ることの方がはるかに多かったです。

今、私は自分の言葉を少しだけ話せるようになりました。自分に合うものや心地よい言葉が分かるようになったっていうのかな。

それが客観的に、社会的に、正しいことなのかどうかは分かりませんが、
たくさんの人と出会い自分を言葉にし、また本を読むことを通じて多様な価値観に自分自身を当てていった時に、
ようやく自分が正しいと思うことや本気で取り組みたいことが、少しではありますが見えてきました。

それは現在のルールにおいて正しいことなのかは分かりませんし、表現を間違えてしまうことももちろんあるでしょうし、
でもその度に他者の顔色を見ていてはやはりやり通せないことだと分かっております。

そして、これまでは他者に不満を持ったり怒っていた時間が、最近では自分への怒りに変わってきました。

他者に嫌味を言われたり突っ込まれた時に、
自分のやり方についてまだ自信がないからきちんと説明できない私、
伝え方の詰めが甘かった私、
もちろん皆に理解して欲しいなんて思ってはいないのですが、
突っ込まれた時に、自分の心に嫌な感情が起こってくること、説明しきれないことにとても腹が立ちます。
きっと深く突っ込んでくる人がひとりでもいることは、
有難いことなのだと思います。
それによって、私が私に対して説明できないことが見えるから。

私はデザインをする人間ですが、その領域においてより自由な表現をすると決めたのなら、
自分だけは自分を100%信じたい。

今あるデザインはこれまでのデザインのカタチや認識でしかなくて、もし私が切実にやりたいことがデザインの領域でできないのなら、デザイン以外の領域をつくればいいとすら思えるのです。

私はもともとは歴史が好きで、残された物語や実在する遺跡に美しい光景やメロディを感じました。
今でも歴史や物語は、人間にしか紡げない美しい遺産だと思っており、歴史や昔の人間の生き様を伝える手段として、美しさをビジュアルや体験として伝えられるデザインを学んでいるように思います。
それは小説でも、料理でも、建築でも、手段は多様に存在しますが、
きっと私には空間的なアプローチが楽しく思えるからスペースデザインを楽しく学べているのだと思います。
だから、私のデザインがこれまでのデザインと違うと非難され続けて、創作の体力まで奪われるのなら、新しいやり方や概念をつくるでしょう。

最近の私は、
ある程度自分が生涯掛けてやってみたいことやテーマが見えてきているにも関わらず、
私に対してまだどこかで自分を信じ切れていない、
 
ー それは他者の言葉や評価によって自分がその言葉通りの自分になってしまう ー
そんな揺れる自分に対して怒っているんだと思います。

多分、他者から私へ怒りの対象が移行し、今後より大きな社会、それは私がその一部である社会に対して、への怒りへ移行し、その時にひとりで夢中に製作することから、複数の人と一緒に製作するやり方になってくるのだと感覚的に思っています。

私も人と話すことを通じて、
誰に対してか分からない怒りや行き場のない気持ちを味わい、
それがこうやって書き出すうちに言葉となって落ち着いていくような、
いい学生生活を過ごせていますね。
生身でぶつかってきてくれるクラスメイトに、感謝 感謝。

そしてこの生活を見守って支えてくれるパートナーと、両親に感謝。。。
頑張らねば😭

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