無日記(06/20~9/13)

◎劇として出ていかせる
 今年、中島みゆきのアルバム「生きていてもいいですか」を通しで聴いたお陰で不穏な昂り方をしていた精神が安定した事例が、二度に渡って発生している。
 その中の「エレーン」は陰鬱な方面の説得力がありすぎ、平時に聴くとちょっとくどいと思う。中島みゆき史を俯瞰して語れるような知識の裏打ちがある訳ではないので、実際にすごく暗い中島みゆきなのか、実は俺がこの歌姫のテイスト自体肌に合っておらず滅入ってしまうニワカ小学生乙なのかは定かでない。まあで、感情がマジすぎてる気がして普段気安く掛けると引いてしまうんだが、すごくこう、行動もなしにいくら考えたって果てのないようなある種下らない凡百すぎる悩みにはまって渇いた精神になっている時に聴くと、俺の中身とか実績の伴わない理想高さを、うまく受け止めてくれる。

 本当に特殊で辛い体験とか乗り越えてきた人間が作っているからこそ俺の虚飾とか保身にかかりきりまくりで完全に終わっている心の核を直に動かすことを可能としているのかもしれないし、俺と同じように実のない夢想だけ尖らせているのを、すごく鍛錬して研いで、ビジネスや生業としてもうまく付き合って、その他諸々の課題を果敢に打ち倒してやっていったらそういう能力の獲得に至ったのかもしれないし、境目なんかなくて両方かもしれないんだが、まあそれはどうでもよくて、
 で、曲の世界に触れることによって、作り手にとってどうかはわからんが俺にとっては非現実的で劇物すぎる情動がインストールされ、それは俺の生活の内には見出だされないため事が終われば一過して当面取り戻す機会も必要もなさげな感情なのだが、そういう実生活から遊離した力強い感情の渦が、
 現実の俺を今までひたすら束縛し膠着状態を長引かせるだけで好転させる素因のなかった凝り固まった感情をほぐし、抽出して、客席から眺めていられる無害な劇としてすんなり出ていかせてくれる感じが、すごくする。人恋しさは(ちゃんと他人を直視する事でしか)解決しないが、人恋しくなってたのは別に自然なことだったんだと、ちいさな許しのようなものがほしくなった時に、丁度そのものをくれる曲たちである。長くなったが、要は好きなので讃えたかっただけだ。


◎創作意欲の固定
 作品群のテイストと、作り手の人生で特にヤッとなった時期とは結び付きが強い気がする。理想は常にヤッを自己最高記録更新し続けつつ食い扶持も稼ぐ事だろうが、たぶん執筆業とかアニメ監督とか、身を浸ける業界ごとに全てスレ方があり、スレることは避けられない。見た訳じゃないので、たぶん。そうなると、劇的な展開や小道具への執着などに窮する度にヤッ期から汲み上げる感じになり、この味よと誉めそやされたり、お前マンネリだぞと急に貶されたりする。

 具体的には、思春期の懊悩がスゴかった作家に、その時代の肯定から来る反復とか否定から来る代償が、そうでない人間には真似のできない強烈さでもって焼き付いている事があると思う。歳を取ってもそれを売りにしていくなら、それはそれでフェイク、ハンコ絵、ポキン金太郎、球体関節人形の夜にはなっていく。し、時代に見放されれば作家生命の危機だから、命懸けで趨勢を見てバージョンアップしていくんだろうが、芯はやはり取り替えられない。
 大学の時期がヤッだった人は、大学にはあって空前絶後だったなんか、例えば頭のいい野放図さみたいなのが積極的に盛り込まれている。それは大学に行ってない人とか、大学以前のヤッが根強い人には再現しづらい。スク水女児が主人公の超巧緻なSFをめっちゃ描いてる人も、小学生の時期と自分の中のSFが育った時期のヤッが複合されているのだろう。あるいは同時期だったり、SFが育った時期にふと過ぎ去りし小学生時代をヤッだったなと思い直すようになって、混じり合ってしまったのかもしれない。

 俺は今監督が大好きなんだが、あの人はアイドルの映画、映画女優の映画、都市伝説のアニメ、夢の映画と、飽くまでも自分が日々働いている創作業界内へ直にヤッを据えてたように思うし、そんな人は相当珍しいのでは。東京ゴッドファーザーズは唯一こう、純社会的なファンタジーのようだし、もっと長生きしてくだすってたらまた変わってきていたかもわからないが。今からでも遅くないので、もっと長生きしてくれないだろうか(泣)。


◎作者より賢い登場人物
 話を考えた人間が、そこに自分より頭のいいキャラを登場させる事は可能だ。ただ、力が強いキャラや容姿のいいキャラを構築する場合とは多少仕組みが異なると思う。例えば「力で岩を壊せる」という情報の、最も鮮度の高い状態は、結果として壊れた岩が現れている現場であって、「友達から聞いたんだけど、A組の○○さんは岩も壊せるらしいよ」と言われても「うっそだぁ~」と返し続けていれば、相手はA組の○○さんを連れてくるしかなくなる。

 頭のよさは少し別で、困難な状況と的確な対処法の形に物語化されて初めて情報の信憑性が高まり、あるべき形になると思う。実在の○○さんがあほであろうと関係なく、「こういう方法で岩が壊せた」というエピソード自体が信用に足るようなら、そこに一片の真実は見出だす事ができる。それが「賢さ」であり、その信憑性の集合体が「恐らく賢い人物」である。
 ただ、創作者は四六時中そういうことを考えていると思うので、ある作品について、作品内の人物と作者の認識との距離が近いほど、具体的な「頭のいいキャラ」描写は敬遠される気がする。「こういう方法でカッコよく岩を壊す人物描写」に失敗していると「的外れなことをしたのに岩が勝手に壊れてくれる不思議な世界」扱いされかねない危険があるからで、しかも作者自身頭がいいほどそのハードルは無限に跳ね上がっていく。少年漫画とかなら、イヤな言い方だが「この程度でも大半の読者は賢いと思ってくれるだろう」と割り切れるが、なんでもかんでも最大限の描写力で競い合っているような業界の場合、どこで満足するにしても、必ず誰かが「この程度かよ」とか言い始めるのはおよそ避けられない事態になり、ゆえに触れ難い領域なのでは、と俺は考えている。


◎断片と、情報整理
 仮に、男である俺が、生きてきた中での様々な経験をもとに「女ってこうだな」と認識し、主張するに至った。しかし実際の所、俺が日常的にやり取りした経験のある男性の分布は広い範囲に渡っていたものの、日常的にやり取りした経験のある女性の分布は特定の年齢層へ偏っており、情報源はもっと大きな全体に対する断片に過ぎなかった。とする。

 こんな時、与えられた情報を解釈する段階にいくら慎重かつ公正を期してみても、出来上がる認識の信憑性はさほど加も減もされない。つまり、そこを頑張るのは徒労であると言える。
 こういう条件下では、幅広い情報を取り入れてからもう一度同じ主張ができたものかを試すか、さもなくば主張を「特定の年齢層」だけに限定したり語気を弱める事で「あまり信憑性がない自覚」を同時にアピールし、そっちに割り切って難を逃れるかで、方針を曲げる決断を迫られる。前者ばかりだと同じ過信を繰り返す不安が残り、後者ばかりだと周囲との関係性の変化により歳や立場相応の知見を求められるようになった途端に通用しなくなる恐れがあるので、ある程度混ぜ合わせる必要もあるだろう。

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