無日記(1/16~4/10)

◎国選弁護人
 誰か一人が猛烈に叩かれてるとかばいたくなる。中学でそうなった。とはいえ俺もファッキン野次馬体質なので、「ツラカッタネ」「ボクハミカタダヨ」みたいな直接行動を示す度胸はなくて、せいぜい叩きの場においてほんのりとその人に寄った考え方でいたり、意見を出しがちに努める。叩きストたちは一人一人がいいやつでも、集まったときの理性は信用できない。乗っかったり、乗せられてるだけの瞬間があるだろう。俺含む。乗っかりが一律に悪とかで済む話でもない。

 あとこの弁護的なものは、俺が本心でその人をどう思ってるかとは別に、ロール、役割分担の必要を感じてするものであって、必ずしもその人の振る舞いをよく知った上で一対一で支えてやりたい決心をした訳では、やはりない。実際近寄ってこられて反応に困った事があるので、史上最悪の連続大量残虐犯は俺の方なのではという気もちょっぴりする。キリストを殺したのはマーシーではない。とうに生きてはいない人間たちだ。なので悪くない。こういうのを論点のすり替えと呼ぶ。俺国国家憲法は、よく考えずに雰囲気で人を叩くべきではないが、よく考えずに日和って擁護に回るのは是としている。
 そう、俺は謂れなき反抗でやっている。叩かれてるやつの安寧なぞ実はたぶんどうでもいい。既に結託している人の輪が、覆りようのない情勢が嫌いなのだ。人間性コンテスト会場が荒れてしっちゃかめっちゃかになってほしいのだ。まっとうな批判まで踏みにじられてほしいのだ。俺の前で批判をするな。いや、普通にしろ。いや、居ないやつの批判をシェアするな。俺でもけなしてろ。近年の研究で、弁護をする人間にも発言力がないと弁護にならないという事がわかってきた。なぜなら俺は国家資格がないパンピーだから。でもそれ正攻法で地固めしてけってことじゃん。やりたくない事じゃん。ワー

 弁護士自身はある種の事件の被告人になると自分を弁護できなくなるそうです(それ以外ならそもそも一般人でも自分を弁護していいそうです)。


◎計測不能になりたい
 誰も口出しできないからな。


◎怯え、それ自体

 自分が人並み以上に突出している部分は怯えだと思う。もはや怯える事すら怯えの対象であり、こんな所で不安になっていていいのかと不安がる始末。例えば、空振りとその後始末は怖い。しかし脚光とその運用法の模索はもっと継続的に怖い。衝動(≒事後に使う言い訳)が湧き起こらない時は何も行動しない方がいい。飽きた人間関係や趣味は逐次放棄していけばいい。俺はネットで他人の事を遠慮なく覗き見するが、誰も俺を見ていないで、判断しないでほしい。俺さえも匿名の俺がする事を忘れてほしい。期待されず、見限られたくもない。期待された後にはきっと踏み外すに違いないから。
 吉良吉影はやっぱ、(殺人欲求という)一番大切な習慣を隠し通す為に他の自由をなげうてるし、バレたら腹括って戦えるからすごいと思う。確か作者もそのようなことを言っていた。殺人はダメ。



◎コネと和解せよ

 「政治」のうまいやつが嫌いだ。だが政治家のことは嫌いではない。

 「政治」が全くわからない。身近な、みんなを納得させて自分も儲かる処世術的なやつもわからないし、よりよい参政みたいなのもわからない。前者の無知は周囲に少なからぬ実害を振り撒いていると感じる。と言ってわかろうとはしていない。無責任だし、無責任すら追及されたくない時に僕は「わからない」というスタンスになる。組織におりながら組織運営に関わらないことはできるが、国民をやめることは怖すぎるので、政治家のお世話にはならざるを得ず、政治家を嫌う資格がない。

 僕は政治家には、なれてもなりたくない。新聞とかで叩かれているし、友人も誰かを叩いている。叩いていないやつは平和に脳を洗われている。政治家というやつは上へ行くほど一生を捧げないとその立場へ収まる事すら不可能と聞くが、どういう自我配分でやっているのだろうか。真面目が当たり前で、汚い部分を露呈した途端、カビた切り餅よろしく捨てられていく。超人が社会を運営しているよう振る舞い続け、願わくは超人そのものとならねばならない。あくまで己で選んだ生き方としてだ。個人的に持っていた満足とかが擦り切れてしまわないのだろうか。そんなもの、初めから持たずに生まれるのだろうか。
 たぶん僕の捉え方がおかしいのだが、とにかく理解の外にある。何が楽しいんだろうと。誰かがやらんと破綻するのだけ承知だから、やってくれてる人には無差別感謝しかない。区議会議員候補の貼り紙は一人たりとも見分けが付かないが、「お宅も大変ですね」みたいな失礼な憐れみだけがある。社内や共同体内政治は、国政よりは適当でいいじゃねーかと思う。有価な人間が評価されなかったり、采配が間違ってたりしても。この認識はたぶん自信の喪失と不貞腐れから来ている。

 ていうか個人間の政治もシカトできるものではない。僕はかなりフィクション脳なので、現実のどんな相手の事も、同じ経験をすれば一人称視点で考えられるなと思っている。誰だって途方もない物語を経てきており、完璧な追体験は時間的容量的に無茶なので、知れる範囲から先はなんかのまじないを信じて見切りを付けねばならない。働きかけを間違えれば物語はぶち壊せる。僕はビビって、誰彼構わず慎重になってしまう。しかし「政治」は俯瞰というか、相手一人と付き合って感じた小手先のどうのこうのとは別次元の計算で執り行われる。それとそもそも、誰ともくっつかない個体や投票しない有権者も、存在するだけで流れのどれかに与してはいる。政治をしないで済むのは外部の政治に依存して凌いでいるに過ぎない。
 態度の使い分けが苦手だ。いや、たぶん無意識にやってはいて、意識してしまうと苦手だ。「誰か一人の考えた客観が、一人一人の待遇を操作しうる」という現実の有りようが、とことん苦手だ。「全員が身勝手な主観のぶつかり合いをしており、勝敗は時の運で決まる」ような方が好きだ。大差ない気もする。



 ところで、創作には「政治」的側面がないのか。ないと思ってきたが、考えが変わってきた。

 まず創作物の偉さと創作者の偉さは完全に分けられるべきだとは思う。僕はすぐ創作者に心酔するが、すごい物を作った事によって、作者(制作陣)の作者以外の立場が社会的な支持を集めるのは僕的には間違っていると思う。注目なら集めてもいい。政治的意図を匂わせた創作物も、個人的な好悪は様々あるが、否定はしない。でも政治で威張るのはダメだ。
 具体例を挙げると、ネームバリューを以たクリエイターがメディア上で国政に口出ししている場面があるが、そんな事をしていい立場にはないと思う(でも校閲とか挟まないで運用してる人も多いだろうSNSが、もう私的な場では絶対にないのか?はまた難しい)。本当に公的な顔で政治とか話したくなったのなら、政治評論家みたいな号をプロフ欄に打ち出して本とか売って、それらに本腰入れてる人々と張り合って見せるべきだと思う。そうでないなら信者魚雷飛ばしてるのと変わりない。信用。そう。信用には横道があり、逸れないよう注意が要る。



 かつて、文化遺伝子という言葉は祝福だった。それを題材にとって妄想漫画のプロットを書くぐらい、いやこれはなんの説得力にもならんけども、僕にとっては祝福だった。人と関わり合いになるそのこと自体が生産行為であったのだから。記憶や人格を保つ魂の仕組みがこの世にないとしても、その断片はもっときめ細かな流れとなって、人々の間を日常的に駆け巡っていたのだ、と。信じていなかったのに、なんらかの不滅は実在したらしい。
 のだが今思うと、この時感動を抱いた対象はかなり「政治」そのものである。遺伝子を遺そうというのは環境や不慮の事態との戦いに勝つことであり、同族との競い合いに勝つことであり、ありとあらゆる淘汰圧に対して有効な立ち回りを編み出すことだ。いわゆるミーム、文化遺伝子も結局は同様だろう。人間や創作物の構成要素は輪廻でき、してもいるが、その力強さは「政治」力だ。内的な創作などないし、力は無自覚に振り回せる。訴えかけは凡そ「政治」だ。創作を好きだが、「政治」は嫌いと言うのは、矛盾でまやかしで、過渡期で、下らぬ駄々だった。
 そんな感じだ。

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