詩コンについて

 過去、Twitterにそういうイベントがあった。参加方法は簡単で、ハッシュタグ # 詩コン を付けてお題に沿った詩を投稿するというもの。一週間のコンテスト周期ごとに、少人数の運営の方が、賞・十選の選出、もしくは投票機能で参加型の選出などを行い、結果と次週のお題を発表する。
 参加条件としてはだいたいのことは不問で、画像の添付や文章の画像化(アプリ等でフォントや背景にこだわれる・字数制限がなくなるメリットがあると思われる)、タグの併用、会期中の連投、運営アカウントへのフォロー有無等も縛りにならず、その週のお題に関係させることだけだったと記憶している。ゆるさから、なんか主旨の違う参加者が紛れ込んできたりもそれなりにしていた(この文は自虐と捉えてもらっても構わない)。活動時期は2019/1-2021/2の2年間だったようだ。終わり際の動向はよく見れておらず、詳しく知らない。


 俺はこんな具合にまあまあ参加していた。公式アカウントが予告とともに消えてしまっており今さら遡れないので、この記事では自分の記憶を信じるが、ピックアップして頂いたこともあったと思う。そうでなくともこういうイベントは互いに見合え、刺激になる。それが楽しく、手軽なので続けられ、毎週ではないがわりと時間を割いて詩を考えていた。ありがとうと、お疲れさまです。


(ここからは自分のアカウント運用の反省)

 でも自分は、詩を投下するだけのアカウントで居たいんだよなと思っていて、運営からの発表メンションにも何も感情らしいものを返さなかったし、運営や運営づてに来てくれた参加者やコンテスト読者へのフォローバックとかもしなかった。あのアカウントは、元は「詩的なふわっとしたことをツイートしたくなるけど特に俺から誰かへのメッセージではないんだよな」ということが多くなり、気兼ねなく放出できるよう生活用から株分けされたもので、自分の中ではあそこでコミュニケーションをするのが嫌だった。代わりに雑多アカのほうで、書かない人の体で応援していた。根暗なのでよくそういうマネをする。イベントの価値を笑うような態度だったかもしれない。すみません。
 心残りは、俺が最後に参加した回(『無題』の回)で出したものがなんか暴力的な感じに振れていたことで、意見でないものに意見をにじませようとしていたのだとすれば、自分の口で言えやと思う。言うと、投稿しなくなった頃は選考基準を疑い始めて、俺個人の評価に限らず全体的に「本当にもの(特定の人ではなく)を比べて選んでる?」と感じていた。まあでも「そう言う君こそものを出す以外になんか関わろうとしたの?」「ネットイベントを維持してる側の事情がどれだけわかるの?」「というかそういうのを十把一絡げで敬遠しようとしてたのに都合よくない?」と問い返してくる自分もいた。なので最後に投稿した奴は、暴力的な何かを吐露する人の口ぶりを作りつつ、「注目されなくなっちゃって寂しいな、なるべくしてのことなんだけど」と、どちらかというと俺自身の話に戻して終えようとした詩なんです。俺的には。だとしても自分の居辛さが増しただけでそのあと参加しなかったし、となると客観的にはゲロ(過激で意図不明な)をぶち撒けて去った人で、なんら礼儀ある振る舞いではなかったと思う。誰かに見える所に置く以上、判断されにくい言葉とは結局のところ、かえって相手流な判断をされてしまう。俺は異議があるのなら、まだ場と繋がりが持てる内に、わかりやすく整えて言えるようになりましょうね。
 それができれば、「これは作品を作りたかったのであって意見ではないんですよ」という区別のラインも、自他の目からハッキリするだろう。薄笑いだけ残して消えるチェシャ猫のようなことをしない。

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