無日記(8/6~10/28)

・伝達の奇異
 正確で公平で欠落もない報道と言うのは、たぶん存在しえない。事実の複製品は厳密には事実からずれるしか仕方のないもので、初めから類型的部分的で小さな体に生まれた情報の方が、複製前後の完全性という点はクリアする。つまり、作品とかいう根拠薄弱なやつらの事だ。
 しみじみと言えた立場じゃないんだが、他人に伝えるのは難しい。普通にやったものを、他人に普通と捉えてもらうのはまったく普通な事ではない。いつもの自分を普通だと思い込んでいると、100%絵に書いた餅だ。馬鹿みたいな量の訴えが日々生まれ、己のラジカルさが招いた狂死に終わる。かすりもしない。不思議な事は何もない。泣き言に頭をうずめるのはタイムアップを早める以外では役に立たない。夜の無茶は甘ったれた自意識には優しく、人体と生活に鬼キビしい。色々襲い掛かってくるが、やるしかない。例えば夜中は寝るしかない。


・古参を再教育
 ご新規はんが入らないとジャンルは廃れると言う。しかし、相当拡大してくると新規の数は頭打ちになる。一方で古参の中には「もう知っとるわ」みたいになり少々の興味では寄り付かなくなる難儀な人種が湧く。俺である。そういうやつの期待をあえて裏切ろうにも、俺みたいなのはいつしか個人的な日々の不調と作品への評価を一緒くたにし出し、あげく気付いていない。私情の量子もつれだ。
 結論、新規と古参へ同時に訴え続けられる、新しくて古い摩訶不思議な何かが、一番根幹的な強さであり、世に栄えしものは皆それをクリアしているのだろう。俺にはその正体がまだわかっていない。ロングラン、押し並べてすごいです。すごい。常時おめでとう。ありがとう。


・富とか名誉と翼セットでください
 環境がないといくら夢をでかく構えても初めから辿り着けない、環境を予め用意されてた側の人間は自力だと勘違いしないでほしい、みたいな感じのツイーティングを見た。俺は教育や環境に関してはよく与えられたと思っているので、与えられたものがよくても努力しなかったらちゃんとコケるよと声高に言いたい。

 なんかとなんかが交換条件みたいな組み立ての論は色々聞くが、大雑把に言って大雑把だし、妥当に見えても二兎獲れる荒くれ者はわりかしいるものだ。
 学生の時分、クイズ研究会と数学研究会と室内楽部を兼部してアニメラノベをこよなく愛し好奇心旺盛で人懐っこく成績は全国云位でT大入ったやつがいた。俺はさほど仲良くもなかったそいつのことが心底妬ましいが、格が違いすぎてもはや敵愾心は湧かなかったし、むしろ気持ちのいい人間だな、あれくらいの全部載せ丼になりたいなと思った。とても無理かろうとも感じつつ。

 なので、「ある奴はあるからいいよな」と恵まれたことがまるで不健康みたいに言うのは、事実には違いないが逆恨みだし、今手元にある持ち物まで腐らせちまうことだと思う。上にはきっともっと羨む相手がいる。責任の所在が誰にせよ、その小器を磨いたり育てたり、宥めたりすかしたりしていく他に手はないのだ。冷たいギフト。


・蓄積と埋没
 年を経ると溜まっていく。記憶はそうだし、方法論とか、功罪とか。ある分野について相対的に蓄積が多い状態は、とりやいず手放しに称賛されていいと思う。
 しかし(直接民主主義制とかみたく)母数が小さかった時に十分誠実だった方法は母数が大きくなると雑や不自由に転じがちなのも確かだ。何が言いたいかというと、個人の中で堆積物を整頓する作業も恐らく、量に従って難しくなっていく、たとえそこに老化も変化も介在せず、分析整理能力は絶えず向上していっているものとしても。それはまるで自ら築いた城壁にうずもれていくようで、時には閉塞感もあるし、ぶっ壊したくもなる。
 このあとどう続ける気だったかぶっ忘れた。


・匿名なにするものぞ
 匿名で色々言われてへこむ人を見た。

 ネットの匿名には2種類あると思う。①一度の意見で完全に名義が途絶える匿名。次には②意見と意見の間で意見者の連続性が確保されており、単に実名ではないだけで個人が判別できる匿名だ。
 最近SNS依存症なので、ネット上の交流がどの程度独立に社会であるか、もしか実社会の一部として機能しているか、を、しばしば考える。そもそも俺は社会活動全般だるいので、連続的に応答の取れる人格同士でネット上に社会が成り立ち始めたのが近年の事のように思えるんだが、そんなの錯覚で俺の気付きより早くそういう黎明がいっぱいやられていて、俺だけ仲間外れにしてズルかったのかもしれない。
 まあでも①→②の順序でネットが発展してきたのは間違いないだろう。①の時代の素体に肉付け、つまり現実から持ち込める情報が社会的に増え出して②の実現に至ったのではないか。①しかなかった時代(2chを思い浮かべている)に肉のやり取りを欲した人々は個人レベルでオフ会とか個人特定とかを発明して血の渇きを癒しており、徐々にネットに基盤を作る動きが組織的になっていった結果、今のSNSみたいに「ネット上にしか実在しない関係の網目」だとか「自身の公開したい部分(作家の私人・レイヤー・語学者・音MAD・人形師・採石etc)だけをネット上に切り出して社会的な信用を得る」とかが公的なサービスの下で可能になっているんだと思う。昔は昔で実話と嘘松の境目が曖昧ゆえ一期一会的に話半分で楽しめたりもしたらしいんで、これは変遷であってなんか卓越した進歩とかでは全然ないだろう。

 でもこう②が、時系列的な前後や確固たる信用によって保証された「匿名」が台頭したネットというのは、そういうのを疎んでネットに来てる人にとってはたいへん息苦しい。事ここに及んで、「社会」は無視できぬサイズでありありと立ち現れる。俺は社会との接触が嫌いだ。どっかよそでやってほしい。

 いや、まあしかし、そんなもんは所詮匿名なのだ。冒頭で①的な匿名の有象無象に野次られてへこんでいた②である人も、自分の方が身を切って活動してるから鼻で笑って封殺していいと思うし、もっと言えば②のネット上の自分への評価よりも遥かに、ネット外の現実で受ける攻撃や励ましを重視すべきだと思う。ネットは下らんからスッパリやめろという事ではなくて、ネット上で妬まれるほど誰かと仲良くやれるような人は、ネット外に今まで築いてきたもっと強固な精神的支柱があると思うから、ネットの淵に引きずり込まれて壊れちゃうくらいなら、それらとネットとの比重を見直すべきだと思う。文章の舵取りが強引であり、締めは脱力である。そもそも俺が連呼してるネットとは何物を指すのだろうか。俺はネットをわかっているのか。そんな俺もネット外にたぶんなんかがある。なんかが。

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