ハーレム・百合 暴力的いっしょくた考

 私は男として、いわゆる百合もの、ガールズラブ、女性対女性の同性愛作品があまり好きになれない。そしてそれは大抵作品そのもののせいというよりは作品外で私が否応なしに覚えてしまう同属嫌悪に起因している。あと私の嫌いなものは必ずと言っていいほど食わず嫌いで、のちに食べてみたらてんで平気になる場合が少なくない。生涯嫌いなままでいる保証はない。それとラノベはあんま読まないので当文章で「作品」とされるのは私個人の趣味遍歴に依りほぼほぼ漫画に限った話である。て感じで書きます。

 私は女性が好きだ。現実の女性経験を全く持たないクソ陰キャ童貞なので、青い夢を見ている面も大いにあるだろう。だがあらゆる面に好奇を感じて止まない。それは、そうだ。そりゃそうだと言ったが同性愛を否定するつもりはない。どころかどちらかと言うと男性間の同性愛作品の方が心穏やかに感情移入できるし、なんならそっちの気が多分にある。まあいい。とにかく私は、女性として設定された単一の非実在青少年を、その存在自体を根こそぎに毛嫌いする訳ではない。繰り返すが、男女いずれかの同性愛や、それを題材に取った作品の市民権を否定したい意図もない。


 (女多対男一の)ハーレムものはハッキリ嫌いと言い切れるかどうか微妙なところである。昔ToL0VEるダークネスとか読んでドギマギしていた。アホ丸出しである。しかし思春期に己の男性性に自信を勝ち取れなかった(婉曲表現)私は、男性向けの男女ファンタジーに対し、憧憬と侮蔑と徒労感と饐えた期待とその他の色んな感情が、性に限定されない多様な自己否定を接着剤にして区別できなくなってしまっており、ここを入り口に明確な「嫌悪」へと降りていくグラデーションは広がっている。

 具体的には言わないが、ジャンプのハーレムものがしばしば「この主人公は主体性責任能力皆無の世紀末クズ、あんないい子がこんな男に惚れるのは狂っている」のような批判・揶揄を受けて蜂の巣になったりならなかったりしている。あるいはそれらが槍玉に上がるのは「ハーレムものというジャンルの舞台はそういうファンタジーなんだ」という事前の了承を超えて余りあるご都合主義だから、つまり作品がハーレムものに属する事とバッシングの噴出とは無関係だとする意見もあるだろう。しかし私は、ハーレムものが展開を叩かれているのを見掛けると大抵は「ぶっちゃけそこ、ハーレムものなんだからしょうがなくね?」と思う。クズについて。セカイ系という少し古めかしい言葉を私は、まあ理解度はともかく知っている。高校の時に授業で読んだ評論で評されていたのには確か、「主人公から見て『近距離』に位置する同年代の友人や降って湧いた異性などとの人間関係、そして『遠距離』に位置するとてつもなく大規模でまず主人公の周囲も巻き込まれるような世界の危機」を「それらの接合部として『中距離』に置かれるべき社会」の描写が省かれた状態で物語にした結果、「主人公の周辺に歪に集中されたパワーバランスのみによって、具体性に乏しい『セカイ』なるものの行く末が簡単に左右される」と、特定ジャンルを揶揄した用語だった。要は描写の深度でもって、作者が興味の無い営みに対し余りに露骨な無視が決め込まれている。それは悪しき幼さである、というような論だった気がする。ズレているかもしれないが今回はそういう論の例として挙げることとする。さて、ハーレムものについても似たような批判は下せる。主人公の男性と恋愛関係を構築しうる魅力的な女性たちが矢継ぎ早に登場するも、恋のライバルたりえる男性が異様に少ない、もしくは居る場合でもいつも不可解な都合で主人公に軍配が上がる。女性キャラたちは主人公ひとりを絶対視しすぎ、失望しなさすぎ、自分自身や他の女性との煮え切らない関係維持に寛容すぎ、などなど。確かに時空が歪んでいる。そのジャンルを持て囃す人々が直視したくない、女性との関係構築の実際からはかけ離れて都合がいい仕上がりだろう。

 しかしそれはそういうジャンルなんだから仕方ないように思う。生まれてこの方まだ何も誇れるものを持たない男子のサクセス、ドリーム。今現在の無を資本に将来あらゆる物事が展開されうる事だけは嘘ではないし、本当だ。充分に若ければ。その上で、個性がうっすかったりむしろ身勝手さが目立つ主人公が、なんか一つ優しみを見せただけで惚れられる。そこへ感情移入をして楽しむ。我々は虚構に、魅力的である事を要請する。子供のいないおじいさんとおばあさんの元に突然赤子の入った桃が流れ着くのがフィクションの常識なのだ。何もツッコミを入れる余地はない。もちろん、フィクションがフィクション界で殊更に批判を集めるというのはやっぱりそれだけ嘘度合いの調整をしくじっていて説得力がないという問題点が全てなのかもしれない。だが、別にいいじゃないか。嘘丸出しで。

 その嘘を必要としている少年が常にいると思うし、彼らが私たち同様嘘を見破れるようになった頃には、同様の誰かがまた新たに生まれて来て、バカの一つ覚えで甘美な幻想に飢えているのだ。だがバカたちは一回一回別物のバカなので、導く誰かが手を変え品を変え愚を犯し続けている必要がある。要するにそれが伝統とか、教育制度だとか、済まないがデカい話へ持っていって誤魔化すのは私の悪い癖だ。根治の見込みはない。話を戻そう。性対象と交流を持つ取っ掛かりさえない少年の為に、「大量の異性が好いてくれるだけに終始する歪な嘘」は一定の役割を担っていると、私は思う。持論だが、存在によって何か役割を果たしているものは、何であれ合理的と言ってよい。現在私がこんな人間に成り果て、優しい嘘を取っ掛かりに闘い始める事をせず、その胎児の夢の模様を延々と反復しながら寝言を言って現を抜かすクズであるのは個人的な問題であって、全く以て虚構の大量摂取行為や、虚構一つ一つの存在価値を貶めたりはしない。全面的に私個人の不徳の致す所である。であるので、たとえハーレムもの作品との接触が私の現実の人間関係へ寄与したところがまるでなく、むしろ悪影響を及ぼしているのだとしても、そんな私が自信を持ってハーレムものを肯定する事はできる。


 ではなぜ百合の場合は生理的にムリになってしまうのか。個人的な経験を、まず書かせてもらう。最近私は「女性のための百合」とか「腐男子」とか「同性愛という括りで、キャラクターや読者の性別を選ばない作品群を集めた雑誌」とかがあるのを目にして、そこで初めて「ネットやかにやでBLとか衆道とかほざいているやつらがみんな女だったり、少女を羅列して友情と恋の狭間とか訳のわからない事を言っているやつらがみんながみんな男というわけでは必ずしもないのだな」ということにようやく考えが回った。これは本当に最近の事で、昨日など電子市場に目を遣ったら「女性向けBL作品」と「ゲイ向け作品」という区分があってこれまた心底驚いた。それまで私は「男性同士の恋愛関係を描いた作品を好むのは100%女性」みたいな偏見を抱いており、百合に対しても然りであった。つまりは、以前から私が百合作品に馴染めない気持ちを抱えていたのは「(自分含む)男性読者みなへの嫌悪感」からなのである。

 どういうことか?この崇高なるキマシタワーに男なんて汚物は影も形もないのに、おめー脳みそパープリンか?と思われる向きもあるだろう。百合と捉えられるキャラクター関係は女性同士で、ものによっては公式には恋愛関係ですらないのだが百合好きには響く(らしい)ので百合界隈では百合として扱われる、そして特に恋愛要素を妄想で補うといった事も必要とはされず彼女らの有り様そのものが既に百合なのだ、みたいな哲学もあると聞く。悪いが正直私にはピンと来ないし、百合好きでもないと思うのでどこかに認識の誤りがあるやもしれないがご容赦願おう。その女性だけの画面の、どこに男が。画面外にである。百合をブヒる男性読者がいれば、彼は男なので男性である。天地が転んでも女性とはならない。作品に登場した女性が女性同性愛者であっても、男性読者とその女性とは生涯に渡り異質なままだと私は思う。

 私の知り合いには百合好きの男性が何人かおり、中には百合ものを『徹底的な男性性の排除』ゆえに好む、と公言して憚らない者もいる。そしてその主張を耳にして以来それはずっと喉の小骨となって引っ掛かっているのである。率直に言ってハーレムものの主人公は、クズでもいいと私は思う。男の共同幻想がクズで、男はみんな意識の奥底でクズなのだと思う(異論は認める)。だから仕方がない、とそういう屁の理屈でいる。しかしここで、同一線上に百合ものを置いてみるとどうだ。どんな物語も物語である以上、『視点』が要る。セリフだけで進行する漫画もあるにはある(キメラアント編の最終回とか)だろうが、お前ちょっと黙ってろ。『視点』、私はカメラと言う呼び方が好きなのだが、それは読者に『視野』、映像を提供する。例として、当然起こっている出来事を敢えて描写しない、という技法がある。朝チュンとか、かくかくしかじかで一部始終説明するやつとか、人が殺される瞬間に画面が返り血に切り替わってグロくないやつとかだ。使い方はそれぞれだが、概して「前後の描写からそこに事実があることは容易に推察が付くものの、直接的な描写と印象付けを避ける」という効果を生む。裏を返せば、カメラは直視しない事によって物語の表面から要素を閉め出せる。私としては、非・女性読者が女性への興味から百合ものを好むというのは、カメラへ感情移入しているに等しいと思うのだ。

 まず冷静に男女同士の恋愛を見詰めて描いた文学作品がある。よく知らないが、多分どっかにあるだろう。それは(女性愛の男性読者にとって)現実的にいかにも起こりうる恋愛の機微を描いているが、キャラクター達が真実味を帯びすぎており片手間では共感しにくい。読者はまず咀嚼することに認識リソースを注ぎ込まねばならない。あるいはそれが難しくて作品を楽しめない読者すら出てくる。その前方に、冷静でない構造のハーレムもの漫画がある。それは軽く、易く、造形の曖昧で流動的な男主人公が据えてあるお陰で、肝となる恋愛への感情移入に際して比較的読み手のメモリーを食わない。ひどい表現をすれば、ぼんやり読んでるだけで全能感や快楽が雪崩れ込んでくるということ。最後、更に近くに百合ものがある。ここに至ると感情移入対象がもはやキャラクターの体を成していない。それは百合の展開された情景を写すだけのカメラである。と、これはなにか卑怯ではないか?いや先も言ったが、私は女性を恋愛対象として好きだし、なんならはべらしたいくらいの薄汚い欲望はたぶん持っていて、ハーレムものその他の無垢な青少年向けに作られた作品をそういうヨゴレた目で読んできた素地もある。全く他人の事を言えた立場ではない。しかしだからこそ、「ハーレムものの主人公が作品の内外からクズの謗りを受ける事が可能」と言う事実は、女性キャラクターを物語の文脈上に好き勝手に配置できる傲慢な私たちが、払うことのできる最後の、侵すべからざる対価であるように思えるのだ。


 白昼夢じみた仮定になるが、男性諸君は女性キャラクターの身にもなってほしい。ふと、私たちが現実で生きるのに必須な良識と、意識の自由が、物語のある瞬間のキャラクターに宿ったとする(メタフィクション漫画の流行が以前にあった)。作品がハーレムものなら、その時にハーレムものの主人公をとっちめることは可能だ。数々のラッキースケベを悉く裁判沙汰にしたり、不具にして男娼館に売り飛ばしたり、偶々魔人能力を獲得すればタマを爆発させて男自体を根絶やしにしたりが可能だ。だがそれは、相手がコミュニケーション可能な男子として存在していてこそである。世界を撮影するカメラに対して手が出せるだろうか?次元の違う存在に文句の一つさえ言えるだろうか。だがそれは確かに自分の日常を身勝手に切り取り、こことは違うどこかでの娯楽として現在進行形で饗し続けているのだ。発狂を免れないのではないだろうか。我々のする覗き見はフィクションの人物へ抑圧を敷いている。暴威。そんなわけないよね。そんなわけないのだが、私個人はそういう七面倒なさがに則って生きているということだ。こういう理由で私は百合ものの女性キャラクターに感情移入すると、男である所の自己への否定が優先されて爆発し噴き上がり、夜空に瞬いてしまうナノマシン盗撮魔。ちなみにTSは大好物です。えっ?

 というか今思ったのだが、男や女以前に、私は自分自身の自我を強烈に愛している。自我が好きな余り、他者としてしか位置付けられぬ人格だけを集めて愛でるという種の感性に不慣れなのかもしれない。TSってのは女性の体と社会的立場が突然身に降りかかった、女性の皮を被った男性キャラクターがなんか色々するジャンルだ(字義通りならば逆も含むのだろうが目下そちらに私は興味がない)。従ってTSっ子同士の百合ならブヒれるのかもしれない。結論が思い付かないので今宵はこれを結論にしたい。時折、自転車で遠出したくなる。孤独な1本の麺のみから成るラーメンのように。表裏一体でアースガルドを取り巻くメビウスのように。釈迦の掌を飛んで物言わぬ筋斗雲の尾のように。炊き出しに並ぶ蟻の行列。

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