食と葬儀

 人間は人間の腐乱死体を怖がる。古事記にもそう書かれている。聖人も腐らない(とされる)。腐るとか朽ちるというのの実態は、菌、微細な捕食者に食われるとか、水分が抜けてくとかいうことで、それは鬼や悪霊に変わる異形化だったり、魂の21gだったりという形で、科学的な理解に達していない時代でもなんとなくな考え方で取り扱われてはいるし、俺なんかこのご時世にオカルト寄りで解釈しているので古代人だ。

 魂は今回は置いといて、生き物と食い物がベン図でかぶっているみたいな、前から考えていた話がしたい。

 生物の体はおおかた可食物だ。フグを未処理のまま食うと死ぬ(食う行為の生命維持という側面に反する結果を招く)が、それですら時に可食物だ。だが人体は人間にとって、基本的に食い物であってはならない。だが、等しく死ぬ。生きている人間から見たとき、人間が死んでから、その残骸を人間と見做せなくなるまでに、生き物ではないが食い物ではある期間がある。
 人にしろその他の動物にしろ、相手が目の前に生きていれば人間は、自明に人格化できる。事実人格があり、応答が取れるからだ。行方不明とか死後何年も経ったとかで消え去ったものは、それはそれで仮想上の人格をもたされる。人格が手の届く限りどこにもなく、確実に自分たちの思考や話の中にしかなくなってしまったものだからだ。それらの中間に「食い物期」がある。別に生きている最中も食おうと思えば食えるが、普通そこには抵抗を示す人格が宿っている。人格が去った直後だけは生き物ではなく、かつ、食い物ではある。食われる為にあると言い換えてしまってもいい。腐っていく過程は、見えない他者に食われていく過程だ。

 葬儀とは、この「食い物期」を可及的速やかに送る、飛ばす習わしではないだろうか。鳥葬は必要に駆られてするとウィキペディアにある。寒冷な高地であり、土葬によっては遺体が滅びにくい。火葬には薪が費やされる。鳥葬をする場合、鳥獣や、それらを包括する自然の輪が神聖視される。文明を囲む自然環境の要請によって葬儀の方法も、派生した民間信仰のありよう、死生観なども全く異なって組み立てられる。
 生命が失われた決定的瞬間から、そうだったものを一切の迷いなく物質と思い切られれば、恐らく葬儀など必要ない。また他の生命を食らい殺して生きる行為から生来無縁であれば、これも同族を食いに来る者たちに人格を覚えず、忌避もしないだろうから、葬儀など生まれないと思う。実際にはそのどちらも人間は抱えていて、他種を食い、時に人格を重ねて考えたがる人間という生き物には、葬儀が必要である。

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